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2019年06月01日10:18

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原発雑考第371号の転載   政府の脱温暖化長期戦略案  脱原発運動の連続と非連続など

原発雑考第371号の転載です。

2019・ 6・5
発行 田中良明
転載自由
連絡先 豊橋市富士見台二丁目12-8 E-Mail tnk24@tees.jp


政府の脱温暖化長期戦略案

 政府の脱温暖化長期戦略案が公表された。温暖化防止パリ協定に基づいて各国に策定が求められているもので、2050年までに温室効果ガス(GHG)排出量80%削減という国際公約の実現に向けたシナリオでもある。
 本誌で繰り返し指摘しているが、昨年改定されたエネルギー基本計画に掲げられた2030年の電源構成比(LNG火力27%、石炭火力26%、再エネ22〜24%、原子力20〜22%、石油火力3%)から出発したのでは、2050年までのGHG80%削減はとうてい不可能である。そこで長期戦略案ではどのような工夫がされているのか注目していたが、工夫はなにもなかった。それを象徴するのが、石炭火力と原発が長期戦略案においても温存されていることである。
 石炭火力については、長期戦略案の元になった有識者懇談会の座長案ではさすがに将来的には全廃するとなっていたらしい。それを日立製作所の中西会長(経団連会長)、日本製鉄の進藤会長、トヨタ自動車の内山田会長が反対して温存に変更されたと報じられている(4月24日朝日新聞)。
原発については、再稼働を進めることが謳われ、2050年に向けては社会的信頼の回復が不可欠であり、そのために人材・技術・産業基盤の強化、安全性・経済性・機動性に優れた炉の追求、バックエンド問題の解決のための技術開発や国際連携という3つの課題の解決を計っていくとされている。
 長期戦略に当面の課題である再稼働推進を書き込まざるをえなかったこと、2050年に向けて挙げられた3課題は原子力利用の根幹であり、それをいまさら課題として挙げなければならなかったこと、そしてなによりも原発新設が謳われていない(反対が強くて謳うことができなかった)こと。これらのことは、現状においてすでに原発が持続不可能であることを物語っている。
 石炭火力と原発は脱温暖化と相容れないし、すでに死に体だ。それを2050年以降も温存しようとするのは理解不能である。長期戦略と称するものの、眼中にあるのは目先の利益と都合だけではないのか。


脱原発運動の連続と非連続

 前号で安藤丈将氏の新著『脱原発の運動史』の紹介をした際に、氏の〈反原発ニューウエーブ〉の捉え方に異論があると書いた。
 日本で都市住民による脱原発運動が出現するのはチェルノブイリ後であり、その主要な構成員は3、40代の男女だった。労組動員などで男性が圧倒的だったそれまでの各種の社会運動に較べれば、女性の割合が非常に高かったのでメディアの注目を浴びたが、運動がもっぱら女性によって(ましてや専業主婦によって)担われていたわけではない。
 この都市住民による脱原発運動は、街頭での多彩なパフォーマンスなど活動形態の新しさもあって、反原発ニューウエーブと呼ばれた。これは安藤氏の記述のとおりである。私が言いたかったのは、反原発ニューウエーブは広狭二つの意味で使われていたということである。一つはこの時期に登場した都市住民の脱原発運動全体を指すもの〈広義のニューウエーブ〉で、もう一つは1988年の四国電力伊方原発出力調整実験抗議運動(伊方の闘い)で大きな役割を果たした大分の小原良子さんたちのグループを指すもの〈狭義のニューウエーブ〉である。
 〈狭義のニューウエーブ〉と〈広義のニューウエーブ〉のなかの〈狭義のニューウエーブ〉以外のグループとの間にはかなりの緊張関係があった。後者による前者〈狭義のニューウエーブ〉にたいする批判は、安藤氏の本の5ページに引用されている木村京子さんの「「伊方」が垣間見せた画期的な社会変革への可能性とは、その後の運動の中でこそ実現されていくわけですから、「伊方」を絶対的唯一の闘いとして語ることは、かえって「伊方」を、そして、「運動のダイナミズム」を語るのに一番ふさわしくない見方、方法であることは誰にもわかることのはずです」という意見に尽きている。
 〈狭義のニューウエーブ〉は、その年の夏の北海道電力泊原発の稼働開始にたいする抗議行動を最期に急速に脱原発運動の前景から消えていった。他方、〈広義のニューウエーブ〉のその他のグループは、旧来の脱原発グループと連携しつつ運動を続け、1990年代以降の都市脱原発運動を担い、各地の原発現地の反対運動を支援して少なからぬ成果を挙げることに貢献すると同時に、独自にさまざまな活動を展開した。そのなかから私が多少は関わり、フクシマ後の脱原発運動に繋がることにもなった二つの活動を紹介しておく。
 一つはチェルノブイリ被災者救援活動である。そこで取り組まれた被災者の保養活動や汚染地での農業・農村再生活動の経験は、フクシマ後の国内の同種の活動のモデルになっている。
 もう一つはノーニュークス・アジア・フォーラム(NNAF)を中心にしたアジア諸国の運動(原発が存在する国においては脱原発を、建設が計画されている国においては建設阻止を目標にした運動)との連携活動である。
 さらに地震学者の石橋克彦氏が1997年に提起した原発震災(巨大地震を共通原因とする地震災害と原発事故の複合災害の発生)というシナリオが脱原発運動の内部で広く共有されていたことも重要である。巨大地震による原発過酷事故発生の危険性は事前に警告されていたのであり、その警告を無視したために福島原発事故は発生したのである。このシナリオの共有は、福島原発事故を想定外の巨大地震によって引き起こされた天災と見なそうとする政府・電力会社・産業界の画策の発動を封殺し、フクシマ後の原発問題全体の構図の根本を決めることに貢献した。
 1990年代以降メディアへの出現頻度は減ったが、脱原発運動はしたたかに続いており、フクシマ後に少なからぬものをもたらしているのである。ある社会運動に大きな変化があったように見える場合、子細に見ればそこには従来からの連続面と非連続面とが存在している。チェルノブイリ後の〈狭義のニューウエーブ〉はそのうちの非連続面を体現していたといえよう。そうであったから世間やメディアの注目を浴びたが、〈狭義のニューウエーブ〉でチェルノブイリ後の脱原発運動の全体を代表させることはできないのである。
 連続と非連続という問題は、フクシマ後の脱原発運動にも見られる。
 フクシマ後の運動の新しさを象徴するものとして2012年の首相官邸前抗議行動が取り上げられることが多い。この行動の主催者(組織者)の首都圏反原発連合については、時間が自由な職業、アートや知的な職業に従事している3、40代の男女が多いとされている(小熊英二『首相官邸の前で』)。そうであった大きな理由は、首都圏にはこのような年齢・職業層が分厚く存在していることである。その意味で、首都圏反原発連合の新しさは評価するが、それは首都圏限定の運動であり、日本全体の運動を代表するものとはいえないだろう(首都圏でも「さよなら原発1000万署名市民の会」など従来型の運動も活発で、参加者は首相官邸前抗議行動と大きく重なり合っていた)。
 日本全体で見れば、担い手という点ではフクシマ前と後の非連続性はそれほど大きくなく、チェルノブイリ前と後よりもむしろ小さいと思われる。とはいえフクシマ後には脱原発指向がメジャーになり、即時脱原発が運動の現実的目標になった。このような状況が生まれたことこそ、原発問題におけるフクシマ後の新しさである。


雑 記 帳

 ウオーキング兼公園猫見守りに毎日通っている万場緑地公園にニホンミツバチの蜂球ができていた。ニホンミツバチのメスは、巣の中で新しいメスが育つと、それに巣を譲り、数千匹の働き蜂を伴って新しい巣を求めて飛び立つ(分封)。飛び立ったハチたちは新しい巣が見つかるまでの間、木の枝などに円錐形の塊になって止まっている。この塊が蜂球である。
 万場緑地北側の遊歩道脇の木に2つの蜂球があるのが発見されたのは5月10日で、私はそのことを翌11日に教えてもらった。しかしその日は見つけることができず、翌日蜂球のある場所に連れて行ってもらった。そのときには大人の手の届く高さにあった蜂球はすでにニホンミツバチを飼っている人によって捕獲されていて、蜂球は1つだけになっていた。
 蜂球は仮の宿なのですぐになくなると思っていたが、そうではなかった。少しずつ小さくなりながらも、1晩で150ミリもの大雨にも耐えて残り続けていた。けっきょく蜂球が消えているのを確認したのは26日の夕方だった。前日は万場緑地に行っていないので、ハチたちが飛び去ったのは25日か26日である。26日夕方にはまだ数匹のハチが蜂球のあった辺りを飛び回っていたが、翌日には1匹もいなくなった。
 ニホンミツバチは庭でもときどき見かける。その行動範囲は2キロ以下とか、2〜3キロとされているので、団地周辺に巣があるということだ。万場緑地に蜂球を作っていたハチたちの新しい巣も近くにあるかもしれない。

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