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2019年05月30日05:45

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『天寿国の末裔』752『大仏開眼供養ー大仏の黒い涙』

『天寿国の末裔』752『大仏開眼供養ー大仏の黒い涙』

○『四月九日 盧遮那大佛像成り、天皇・聖武太上天皇・光明皇太后等、東大寺に行幸され、開眼供養を行ひ給う。』     

『天平勝宝四年(752)四月九日盧遮那那仏大佛像成り、天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺に行幸され、開眼供養を行い給ふ。』

 菩提様が毘盧遮那那仏の眼に墨を入れられた。あろうことか、墨は涙のごとく眼よりこぼれた。大仏様は泣いておらるる。黒い涙。初めて眼を開かれて泣いておらるる。もう一つの眼も、やはり涙を流される。
 人と同じじゃ。赤子のようでごさる。皆の者がどよめく。あの黒い涙の意味を問うておる。それぞれに答えを出しおる。
 幡が風にはためく、散華の花びらが舞う。衆生が我先に拾い集める。胸にいだく。しっかりと抱くが良い。それは仏様の御心じゃ。この良き日の為に命を落とした者達の御心じゃ。この世にこれほどきれいな花はあろうか。
その花びらをけしておろそかにするでない。
 私は忘れない。この日の為に、おお、幾多の人々がその身命をささげたか。おお、路傍にて果てた者、村を捨て山に野に果てた者。川に、海に身を投げた者。まつろわず役人に追われ、鞭打たれ無念のおもいで我々を恨みつ、大仏を憎みつ果てた無垢の衆生達よ。
 私にはわかる。大仏様の涙の意味を。我を許せ。帝様を、ここに集いし者達を許せ。
 堂塔の建立、大仏の建立に一体何の意味があろうか。民草を泣かせ、死なせ、おお、私の心は今、地獄の業火の中にある。帝様の心も同じじゃ。ここに集いし者達のどれだけの者が心の底から喜んでおろう。怨嗟の声もあるだろうに。
許せ。されども許せ。我らをうらめし者達よ。この日の本に大仏が在るは大難を避ける為に必要なのだ。悪しき戦を避ける為、この国を守らんが為に必要なのだ。大仏が出来たからとて大難は起こるだろう。疫病も、天変地異も飢餓も、起こるだろう。しかしそれを防ぐ為、皆の心のより所となる大仏様が必要なのじゃ。そのことを解っておくれよ。
 見て見よ。大仏殿は山のごとくある。これほど立派な大仏様がどこにある。これは日の本の国の誇りなのじゃ。
 今よりこの国は荘厳な仏の国になるのじゃ。東大寺より菩薩があふれ出てこの国は生まれ変わるのじゃ。民草よ。許せ。私を許せ。
聖徳太子様は天寿国繍帳を残された。今日のこの日の艶やかな姿は、天寿国のそれである。僧も役人も衆生も皆晴れやかにてござる。皆泣きながら喜んでおる。しかし、けだし無理もあろうか。
 行基様がおられたら喜んでくださりましょう。行基衆ももっと大勢、殿内に来られましょうに。なんの遠慮のいろうことか。有り難うごさいます。有り難うごさいまする。皆様に礼を申しまする。手を合わせまする。

<大仏開眼供養会>
天平勝宝四年(752)四月九日めでたく大仏開眼供養会が行われる。
聖武天皇・光明皇后は百官を従え僧尼一万人を集め、毘盧遮那佛に結縁を求める人々で、大仏殿は「人・人・人」で溢れている。
僧『仏哲』は、可能な限り世界中より楽人を集め、

五節の舞(冷泉家に今日も伝わる)
久米舞
楯伏
踏歌(足をつかったダンス)
袍袴(袍は着物、袴はズボンのような衣装)の舞
猪伏

の舞を、求める全ての人々の為に献上した。
東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ分散し歌舞された。
円陣を組み隊列をつくり何人かのグループで構成する歌舞、様式を生み出したのだろう。
唐・高麗・暹羅(タイ)・林邑(ベトナム)の樂が、庭にそれぞれ分かれて演奏された。
その舞は遠くからでも良く見えるように計算されていただろう。
蓮華蔵世界の祝福は、仏哲の演出により1250年も前に『ワールド・コンサート』として催され、万民で祝われた。
仏法が到来しかってこれほど盛大な斎会はなかった。それは『極楽浄土』の演出であり現世的創造である。仏法の治まる世の現出である。

空を舞う散華は果敢に身命を打ち捨てた御魂であった。それは生花であったろう。
人々は僧達の振り撒く花を我先に受けた。拾った。(その後に「手掻会」として継承された。)

当時の善良な民は大仏殿の近くに集まろうとした。しかし「奉ろわぬ者」達、名も無き民衆、当時卑しい身分とされた者たちは「三笠山」に登りその様子を見守った。
『東大寺山堺四至図』に「葛尾山(九十九折山)」とあるのは、その時に山の斜面で人々が重なるようにして見ていた、その様子から命名されたのではないだろうか。(この頃に三笠山の二合目は大仏建立の燃料資源ともなり禿山の様相を示していただろう。)
例え縁の薄き者達でさえこの日を一目見てみたかった。いや、やはり楽しみにしていた。仏哲は彼らににもこの日を祝って欲しかった。聖武天皇の希望ですらあったのだ。

現回廊内から「三笠山」(若草山)は一望される。回廊内がステージであれば、若草山は観客席としてのアルプス席だった。聖武天皇は出来うる限りの多くの人々・万民と共に、今日の良き日を祝いたかった。仏哲はそれを実現すべく努力したのだ。

○『四月十日 盧遮那大佛像の開眼供養に當り、元興寺、歌を献ず。』
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