「あえて（防御の）分厚いところを狙って一点突破できるのはアニメの世界だけです」
「自然災害は多かったものの、幸いにも戦争の惨禍はなかった平和な“平成”時代」が終わったとたんに、へべれけ状態で「ロシアと戦争して北方領土を奪い返す」と言い放つ物騒きわまりない代議士先生（現在雲隠れ中）が出てきて、これを「よくぞ言った」と持ち上げる無責任な有象無象がネットで空騒ぎし、"令和"時代のの先行きは「剣呑だなあ」とため息をつくこの頃。しかし、ロシア（当時はソ連邦）と戦って、みずからの主張する国境線を確保しようというのは、80年前の「ノモンハン事件」を彷彿させる構図なのだが……
1939（昭和14）年８月20日、ソ連軍第１軍集団司令官Ｇ・ジューコフ中将は、ハルハ河右（東）岸のソ連・モンゴル人民共和国（現・モンゴル国）の主張する国境線内に展開していた関東軍隷下の第23師団を主力とする日本軍（兵力２万前後）に対し、北部、南部・中央の３集団（３個狙撃［歩兵］師団基幹の兵力約52,000、火砲487門、戦車・装甲車823両）を以て、まず中央集団が砲撃主体（８:15から砲撃は延べ３時間におよび、それに先立って5:45分から200機をこえる爆撃機が日本軍の前進基地を空爆した）で日本軍第一線中央に痛打を与える一方で、北部及び南部集団の機甲部隊が日本軍前線の外側から迂回し、その後背で連接して包囲環を形成（第一段階）、次いで包囲環のなかに閉じ込められた日本軍部隊を拠点ごとに包囲し、歩・戦・砲の諸兵協同でシラミ潰しに掃蕩する（第二段階）という「８月攻勢」を発動した。
アレクセエンコ大佐率いる北部集団の攻勢は、日本軍の堅固な拠点があった「721（フイ）高地」で、井置栄一中佐率いる第23師団捜索隊のはげしい抵抗にあって思うように進捗しなかったものの、ポタポフ大佐の率いた南部集団は、日本軍の防御線を次々と突破し、日本の前線南部をいくつもの単位に分断したうえで各々を封鎖および包囲し、壊滅させていき、23日にはハルハ河の支流ホルステン河南岸にあった日本軍拠点は一つを残して粉砕され、その先鋒である第８装甲旅団はソ連＝外モンゴル側の主張する国境線付近に到達して、日本軍の後退を阻止する態勢を確保した。
ソ連軍の包囲環が完成してにっちもさっちも行かなくなる前に、日本軍は残存兵力をまとめて一旦満州国領内に退避して後図を策するのがベストであったが、「退却」を忌み嫌う日本軍は、ここに来てとんでもない選択をする。それが８月24日の「攻勢移転」だ。 これは、日本軍が左翼（日本軍はハルハ河にたいし西面しているので最南部）の前線を後退させて、そこに「ソ軍を深くわが左翼に誘致」し、24日払暁を期して、歩兵８個大隊の兵力と、転用できる砲兵火力のありったけを集中して、「一挙敵の側背に向って攻撃前進し、捕捉殲滅する」という気宇壮大なもので、当面の目標としてソ軍が占拠している「780（ヤレ）高地」を奪取するとされていた。
しかし、この「攻勢移転」命令が全軍に下達されたのは前日の23日の午後２時（23師作命第198号）で、各所で出没する浸透ソ軍部隊と交戦中であった攻勢参加予定部隊が、トラックなどの輸送機関もなしに徒歩で夜暗に乗じて戦場を離脱、攻勢発起地点に集結するというのは、どだい無理な注文であった（作命は「あらかじめ十分準備を整え」と述べているが、ドタバタもいいところである）。けっきょく24日払暁の攻勢に間にあったのは２コ連隊（小林恒一［少将］第23師団歩兵団長麾下の歩兵第72連隊と、森田範正［少将］第７師団歩兵団長麾下の歩兵第28連隊）の５コ大隊のみで、それも各歩兵団長が各別に攻撃前進を下令し、さらに歩兵の前進を支援するべき砲兵団は、九〇式野砲２コ中隊が延着したことで逐次投入となる等々、攻勢は当初からチグハグなものとなった。
日本の攻勢部隊に対して、780高地を守るソ軍第57狙撃師団第80狙撃連隊は、21日にソ蒙側の主張する国境線から７キロにある780高地上に到達するや、周りより40〜50メートルの標高差があり、日本軍のいる北方は12〜13キロ先まで見渡せるこの高地に、鉄条網を張り巡らせた縦深のある半永久陣地を構築しており、それは余りに巧妙に偽装・隠蔽されていたため、日本軍には780高地からはソ軍の「姿は消え」ているように見え、ひょっとすると、彼らが「（日本軍に恐れをなして）戦線を離脱してしまったか、それともその全兵力が陣地にまだ展開していないもの」かと錯覚させるほどであったという（資料［１］参照）。
日本軍の5個大隊（それまでの戦闘と行軍によって疲労困憊していた）の将兵は、24日9:30から10:00のあいだに、展開地点から約4.5から５キロを南方にそびえる780高地上にむけて攻撃前進を開始した。780高地にあるソ軍の兵力については詳らかではないが（扇廣『私評ノモンハン』では「われに３倍する」「狙撃一連隊と戦車及び装甲旅団の主力または全部、そのほかに多数の砲兵」と記しているが、これはソ軍のドクトリンである「攻者３倍の原則」を当て嵌めて述べているだけで、実数を示していない―資料［２］参照）、前面の砲火砲、側背から出没する装甲車両の数は「ものすごく多かった」という。その日の夕方に第23師団司令部にもたらされた報告から、右翼小林兵団は「小林少将麾下の右翼隊は正午頃にソ軍第一線（展開地点から2.5〜３キロ）に突入するも、ソ軍戦車の逆襲を受けて―この時のソ軍戦車はエンジンをガソリンからＴ-34にも搭載されて高出力450㏋のＶ-2ディーゼルに換装した「ＢＴ-7Ｍ」。機動力が高く、日本軍歩兵の火炎瓶などでは炎上しない上に、７月の右岸で行った装甲部隊のみの突進で払った犠牲に懲りて、日本兵の肉攻を封ずべく狙撃兵を随伴していた―兵団長（小林少将）は行方不明（後刻、重傷と判明）、第72連隊長（酒井美喜雄大佐）は重傷、大・中隊長は殆ど死傷」し、将兵1,295（内将校79）人中、戦死324（将校31）人、戦傷377（将校21）人、戦死傷率60％、将校死傷率66％、損耗火器は、重擲弾筒18、重機５、軽機14、速射砲11、連隊砲14と、戦闘力をほとんど喪失してしまったことが判明した。
かたや森田少将麾下の左翼隊は、ソ軍第一線より500ｍ手前で熾烈な砲火にさらされて釘付けとなり（「水の欠乏と敵火が激しいため、まだ突撃を敢行せず、敵前約500米で停止」）、柔らかい砂地に壕を掘って身を伏せていることしかできなかった。
ところで、24日午後に戦況を把握すべく前線に急行した関東軍参謀・辻政信少佐は、そこで「ほとんどパニック同然となって退却してくる右翼（小林）部隊の将兵の姿」を目撃、とっさに「小林部隊（右第一線）は師団予備隊とす。死傷者を一名のこらず後送した後、兵力をまとめて明払暁までに、師団司令部の位置に集結すべし」という「独断命令」を出している。損害甚大でもはや物の用にも立たない小林兵団を師団予備隊とするのはわかるが、同時に辻は「師団は明払暁より、左翼森田部隊方面から攻撃を続行す。」とも下令している。ソ軍第一線に手前でさっさと壕を掘って身を伏せていた左翼森田部隊も少なからず損害を被っている（第28連隊［長：芦塚長蔵大佐］は24〜25日の戦闘で大隊長１、中隊長全員、小隊長の大半を失っており、牛島康允『ノモンハン全戦史』では、「（ノモンハン）初戦の部隊でこれだけの指揮官を失って潰滅しないのが不思議なぐらいのものである」としている）。５コ大隊で抜けなかったソ軍の縦深陣地が、２コ大隊（それも小林部隊の退却で士気も著しく沮喪していた）で抜けると辻が考えていたとすれば、狂っているとしか言いようがない。
翌25日からの「攻撃続行」を告げられた森田兵団長が、第23師団参謀の岡本徳三大佐と交わしたとされる電話内容というのが五味川純平『ノモンハン』に記されている。
森田「「全滅しても取る必要があるか」
岡本「攻撃とは一寸でも二寸でも出ればよい。この上損害を増されては困る」
もはや「攻撃すること」自体が目的となり、ほとんど妄執となっている。
攻勢は翌25日、翌々26日にも行われたが、森田兵団の犠牲者は増えるばかりか、ハルハ河右岸に広く展開していた砲兵隊を支援する役割もあった歩兵部隊の多くを「攻勢移転」のために引き抜いたばかりに、守るもののいない砲兵隊は、各所でソ軍の歩兵と戦車に蹂躙されてしまった。
この８月24〜26日の日本軍の「攻勢移転」は、元・第23軍参謀の扇廣大佐の『私評ノモンハン』が、「ノモンハン戦で最も拙劣」と呼んだものである。「敵を知らず己を知らず、進むを知って退くを知らぬ」日本軍の「宿痾」ともいえる「驕り」体質が、集約的に暴露されたのが（2年後の太平洋戦争中盤からは、さらにスケールを拡大して再演されることとなるが）「ノモンハン」であったと観るのは、五味川純平氏の『ノモンハン』である（資料［３］参照）。また現在でも読み継がれているロングセラー、戸部良一他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』（ダイヤモンド社 /1984）でも、「ノモンハン事件」を「失敗の序曲」と位置づけて描いているのもこれとおなじ伝であろう。
「戦争」に訴えるしか領土懸案は解決しないと、したり顔でいうやからは、身の丈もかんがえずに「戦争」に訴えたことで領土（形式的には日本の領土ではなく、「満州国」領であったかもしれないが）を喪失した戦史を真摯に学ぶことを勧めたい。
ただし、くれぐれも小田洋太郎（「（日本軍は）敗れたと評することはできない」―『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録 』）とか、中西輝政（「ソ蒙軍はほとんど全て（の戦闘）において敗北していた」―『歴史の書き換えが始まった!―コミンテルンと昭和史の真相』）とか、渡部昇一（「日本軍の奮戦は感激的であり、大勝利と言ってよい」―『『日本を讒する人々』）などといった、史実の裏づけのない自慰史観で書かれたデンパ本などは読んでもらいたくはないが。
（資料［１］）
「日本の軍事専門家が８月24日から26日に至る日本軍による攻勢移転の失敗の原因を調べ、特に印象づけられたことは、ソ連軍が有利な地形を十分に把握し、そうした地区に掩蔽壕を掘ってゆくその懸命な努力と技量であった。
８月21日には、日本軍の左翼を攻撃するソ連軍部隊は、すでに780高地に達していた。その翌日には、ソ連軍部隊は散開と遮蔽にとりわけ注意を払いながら、東２キロの地点にある791高地に向かってのびている一連の高地を、速やかに確保してしまっている。そんな早い時点で、ソ連軍はこの地区における日本軍の攻勢移転を必至と見ていたのであろうか。それとも、この戦闘区域で780高地から791高地に至る一連の高地に進出することだけを、意図していたのであろうか。
ソ連と外蒙古の主張する国境線は、７キロ離れたところを通っているように思われたが、4、50メートルほどの標高差のおかげで、780高地の向こう側を12、3キロの範囲を見渡せるという地の利を、ソ連軍は得ていた。
それに対して、日本軍は８月24日の夜まで鉄条網が張りめぐらされていることにすら気づいていなかった。畑砲兵団長にはソ連軍の隠蔽の巧みさが非常に印象に残った。彼はソ連軍が戦線を離脱してしまったか、それともその全兵力が陣地にまだ展開していないものと考えていた。ところがソ連軍は砲座を『かすり模様』に散開させ、巧みに偽装をほどこしていた。日本軍が射撃しあるいは突撃する目標は戦場から『姿を消し』てしまい、その一方、実際に布陣しているが、『目に見えない』火線網が進撃する日本軍を阻止するというやり方であった。ソ連軍は第80狙撃連隊の戦闘行動と砲兵、戦車両旅団の戦闘行動を見事に協調させていた。ソ連軍の優勢な火力、そして見晴らしのよい地形に布陣していたことは、日本軍には手にあまることであった。」（アルヴィン・D・クックス『ノモンハン�Ｂ萋鷭住飴嫦弔硫�滅』岩崎俊夫・吉本普一郎・訳/朝日文庫/1994）
（資料［２］）
「我は３分の１の兵力で、３倍の敵が３日前から陣地を占領し、陣地の要部には鉄条網さえ設備している状況で、これを攻撃しようとする強烈な大和魂、もっと正直に私の考えを述べれば、兵を死地に投ずる無神経さにただあきれるのである。
その３分の１の兵力も、形の上あるいは数字上の話で、実際の攻勢に任ずる兵力は集まってはいない。かりに集め得たとしても、主決戦に到着する以前、部隊は極度に疲労し、すでに大小の手傷を負っていた。攻撃の命令を受けても、２割か３割かの兵力は、精神的肉体的痛手に堪えながら、戦闘せざるを得なかった。
元来攻勢移転に任ずる兵力は、その防御の利により多少の損害を受けながらも、元気溌剌としていなければならない。ところがソ軍の攻勢部隊はちゃっかりと陣地を占領し、日本軍来らば来れと、ふんぞり返っている。こんな攻勢移転が、過去の戦史にあったであろうか。」(扇廣『私評ノモンハン』芙蓉書房/昭和61)
（資料［３］）
「ソ軍は歩・戦・砲・飛の協同が緊密に出来ており、日本軍を瞰制下に置く地形上の要域への進出が早く、優勢な火力と兵力を擁して、なお、陣地構築にきわめて熱心であった。
それを捕捉殲滅すると豪語した日本軍は、敵の側背を包囲的に衝くには兵力も著しく不足であったし、火力も寡弱であった。したがって、当然、兵力・弾薬資材の縦深配備ができなかった。何よりもいけないのは、劣勢は劣勢なりに充分な準備がなければならないのに、攻勢移転全般にわたって甚だしく準備不充分であったことである。高等司令部の重大な失策というべきであろう。その根柢には、何度実物教育をくらったら懲りるのか常識では理解しかねる軽薄な思い上りがある。運命を賭する決戦としての攻勢移転に際しても、なお、ソ軍の戦力を下算していたことである。潰滅的現象が表われるまで、日本軍指導者と作戦家たちは、自軍の戦略戦術に誤りはなく、用意は充分であり、自軍にはソ軍を撃破する戦力ありと信じていたようである。」（五味川純平『ノモンハン（下）』文春文庫/1978）
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