「人を幸せにするもの」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/5/11(土)【1474】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19925 〈写真入り記事〉
人の幸・不幸を決めるのは、持ち物が多いかどうかにはよりません。
負け惜しみではありません。
ある日、友人牧師を訪ねたら、驚きました。私の自宅の10倍以上の広さの家にたった一人で住んで居るのです。
冗談で、「うちは6人、あなたは1人。こんな広いところもったいないんじゃない?交換しようよ!」と言いました。
ふとした心のすき間から、「私がこんな広い家に住めたら、妻と子どもたちは喜ぶだろうな!?」と考えました。
今住んでいる場所に生活の基盤があり、教会活動をし、地域活動もしています。出前牧師やいろいろなキリスト教関係の会議に出席するのも便利ですので、簡単に引っ越すことはできません。
その時、一人の人が腑に落ちる助言をしてくれました。
「菅野牧師には、今置かれた環境が一番いいんですよ。もし広い家に住んだら、子どもたちがそれぞれ自分の部屋を持ち、一緒に時間を過ごすこともなくなってしまいますよ!」
「人と自分を比較することはナンセンスです」と人に語ります。
しかし、ちょっとした心のすき間から、小さな比較の思いが入り込んでしまうものなのです。
「軒を貸して母屋を取られる」ということわざがあります。
こんな話があります。
旅人が、砂漠でテントを張って夜眠っていると、鼻息の音がするので起きてみると、らくだが、「寒いので顔だけテントに入れさせてもらえないでしょうか?」と頼むので、渋々了承しました。
しかし、しばらくすると、テントにらくだの体が半分が入っていました。「おいおいラクダ君、困るよ!」というと、「ごめん、ごめん、どうしても体が寒いので・・・」と。
明け方起きてみると、らくだにテントは占領され、旅人は外に追い出されていました。
人と自分を比較する思いは、最初はごく一部だけ入って来ますが、終いには心すべてを占領し、不幸な思いにさせられてしまいます。
そんな時、次の聖句を口ずさんで下さい。
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』(詩篇103:1〜2)
「あなたの幸せは、持ち物によらない!」のです。
人が不幸を感じる要因の一つが、人と自分を比較することです。
幸せは、人と比較するところから感じるものではなく、今置かれた場所に根を張って、使命を果たすべく、しっかりと花を咲かせ、実を結ぶことです。
また、「人からどう評価されるか?」も関係ありません。
人の評価は一時的であり、正確ではありません。
人の評価で幸せを感じようとすることは、イエス様が語られた、「人はパンだけで生きるものではない」といわれた「パンの代用品」です。
神が下さる心の食事であるパンは、「あなたを愛している」と語ります。
このいのちを養う食事を、人の言葉を代用品とすることはできません。
人は、一時的に評価してくれたかと思えば、飽きっぽく、浮気っぽいものです。
人の言葉や評価を心の支えとしているならば、人の評価が変わった瞬間に、幸せから不幸のどん底に突き落とされてしまいます。
私たちは、共通して、誰かから愛され、認められ、評価されることを必要としています。
その心を満たす心の食事は、神の言葉である聖書にあります。
聖書を読み、その言葉を心の糧とし、心を養い、心を満たし、心を強くしていって下さい。
そうしたら、どんな状況の中にあっても、幸せを感じられる人になります。
『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』(第一テモテ6:6〜8)
『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(ピリピ4:11〜13)
共に、幸せな人生を歩んで生きましょう。
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