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2019年04月29日10:00

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“加藤の乱”で失墜した人、踏み台にした人、生き残った人

谷垣禎一「あなたは大将なんだから!」――“加藤の乱”で失墜した人、踏み台にした人、生き残った人

「あなたは大将なんだから!」

 加藤紘一の肩をつかみながら説得する谷垣禎一。

 このときの写真を見ると、わずかな余白以外はすべておじさんで埋められている。騒然としているおじさん。泣いているおじさん。

 異様すぎる。いったい何だこの空間は。

平成の政治史で何か一つ言葉をと言われたら、“加藤の乱”での「あなたは大将なんだから!」をあげたい。

 ここには「政局」「永田町」「オヤジジャーナル」、そして「現在へ」がすべて詰まっていると考えるからだ。

ゾクゾクする最高のキャスティング

 まず登場人物にときめく。

 平成12年(2000年、つまりミレニアム)の11月に起きた加藤の乱は、自民党宏池会のプリンスと言われてきた加藤紘一が当時の不人気首相の退陣を求めたクーデター未遂のことである。

 その首相とは森喜朗。ほら、もうワクワクしてきたでしょ。

 森首相の支持率は驚異のひと桁台。ああ、やっぱりゾクゾクしてきた。最強のキャスティング。

 森喜朗を支えた自民党幹事長は野中広務。人の弱みを探させたら天下一品。敵に回したら最大級に厄介な人物。

 そして主役は加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の通称「YKK」である。永田町のヤングおじさんたちのミレニアム物語でもあった加藤の乱。

毎日が総括「加藤の乱 HPから政局に 『世論』で議員は動かず」

 語りどころはたくさんあるが、私は今回はある一点に絞りたい。それは、

「ネットと加藤紘一」である。

 加藤紘一は2000年のこの当時にネットで情報を発信する稀有な政治家だった。それは永田町の泥臭さとは距離を置く“先進さ”の自負にもみえた。

 加藤の計画は盟友の山崎拓と組んで野党の提出する内閣不信任案に同調する、というもの。

 毎日新聞が今年1月28日の「加藤の乱 HPから政局に 『世論』で議員は動かず」という記事で、当時HPで発信された加藤の言葉を振り返っている。

「皆様からの励ましのメールも二千通を超えました。余りのアクセス急増でサーバーがパンクしたほどです」(2000年11月13日)

「自民党は、日本の政治は、変わらなければなりません。そのために私は立ち上がったのです」(同15日)

 加藤は手ごたえを感じていた。しかし山崎拓は次のように振り返っている。

「彼が世論やネットに酔っている間に執行部に切り崩された」(毎日新聞2019年1月28日)

 ここで当時の日付を確認してみる。野党の内閣不信任案提出は11月20日の「月曜日」だった。加藤がHPで熱く語っていた11月13日などは前週ということになる。つまり、11月20日までに週末の「土日」を挟んだことになる。

 この週末に野中広務は徹底的に加藤派を切り崩した。

「野中は造反した議員からは党の公認を剥奪することを示唆した」(後藤謙次『 ドキュメント平成政治史2 』144P)

 エグい……。

 山崎拓の著書『 YKK秘録 』によると、クーデター計画を加藤と考え、民主党の仙谷由人に打ち明けたのがこの年の「10月30日」。

 しかし「11月になると、加藤の不穏な動きはすでに漏れ始めているようだった」(『YKK秘録』)

 しまいにはネット世論にうっとりしている間にどんどん切り崩される加藤紘一。政策論争は大好きだけど、永田町の根回しは不得意な加藤紘一。

加藤は「正直すぎるところがあり、政治家向きでない一面がある」

 山崎拓は加藤をこう評している。

《もともと加藤は、正直すぎるところがあり、政治家向きでない一面がある。彼のような善人と付き合っていると、自分がさも策士かのように思えてしまうことも一度や二度ではなかった。》(『YKK秘録』169P)

 では本物の策士はいかに行動したか? 加藤、山崎とYKKを組んでいたあの男だ。

「森喜朗打倒」の噂を聞きつけた小泉純一郎は加藤紘一にこう告げたという。

「俺なら不信任案に同調する。もっと早くやっているだろう。」

 加藤は小泉にそう言われたと嬉々として山崎拓に話した。

《加藤は焦りのあまり、小泉の術中にハマるという取り返しのつかない大きなミスをおかしてしまった。》(『YKK秘録』169P)

 加藤の企てはすべて筒抜けになってしまった。こうして小泉は自派閥のトップだった森喜朗を全力で守り、加藤の乱を潰す。

 YKKでは3番手というイメージだった小泉が存在感を高め、翌年の総裁選に出馬。一気に熱狂を起こしたのは平成でも有数のインパクト。小泉の圧倒的な政治勘、勝負勘。それに比べると加藤紘一はいかに政局下手だったかわかる。

 もう一度、当時の加藤の様子を見てみよう。

《「明日は皆さんのご期待に沿って行動するつもりです。(中略)家に帰って、皆さんからのメールをできるだけ読んでみたい」。加藤氏は11月19日こう書き込んだ。ところが翌20日の決起集会会場のホテルで、山崎派の前に現れた加藤派は半減しており、本会議を欠席して離党を回避することになった。》(毎日新聞1月28日)

 もう目も当てられない……。

 そしてあの場面が訪れる。

最大の違和感は、加藤がまったく「大将に見えない」こと

《「(山崎)拓さんと2人で本会議に行く」という加藤氏を涙ながらに止める側近の谷垣禎一氏の姿がテレビに流れた。山崎氏によると、国会に向かった2人は野中広務幹事長(18年死去)に説得されて議場に入ることはなかったという。》(毎日新聞・同)

 ここで考えたいのは永田町の言葉遣いである。それは「戦国武将たとえ」。

 自分や他人を戦国武将のようにたとえちゃうアレ。おっさんの戦国好きからくるアレ。

 それはオヤジジャーナルでもよくやる手法だ。いつだったか石原伸晃を「平成の明智光秀」と永田町やオヤジジャーナルは評していたが世間には何も響いてなかった。明智光秀に謝れ。世の中との距離感を証明する「戦国武将たとえ」。

 加藤の乱でも「あなたは大将なんだから」という大仰な言葉が出た。

 しかしあのシーン、何が皮肉かと言えば加藤紘一がまったく「大将に見えない」ということである。

 それが加藤の乱の最大の違和感であり真実だと私は考える。

いろいろ見えてなかった「平成12年の加藤紘一」

 これは決して加藤の器をバカにしているわけではない。そうではなく、おっさんたちの戦国武将ごっこと加藤紘一の相性の悪さを考えたいのである。

 たしかに加藤紘一の人心掌握術が弱かったのは事実らしい。そしてその「ウチの大将が」という子分の評価こそが、政策論争を上回っていたのが昭和自民党である。それは平成12年のあのときも同じだった。

「大将」という表現に浮きまくった加藤。しかし、人たらし的資質はないが政策論争は大好きだったという“加藤紘一的なもの”に私は注目したいのである。

 優等生の頭でっかちかもしれない。政治家向きではないかもしれない。

 だけど相変わらず政局優先の今を見ると、永田町で浮世離れしていた「平成12年の加藤紘一」はとても貴重に思えるのである。現代への示唆にも思える。

 負の部分も参考になる。今から19年前の時点でネットでの「自分への熱い支持」を「世の中の全体意見」だと取り違えてしまった加藤紘一。いろいろ見えてなかった加藤紘一。皮肉にも加藤はここでも先進的だったのである。今のSNS時代を先取りしていた。

 加藤の乱は失墜した人、踏み台にした人、生き残った人、さまざまだった。

 あの時の不人気首相は翌年退陣するが、そのあとの小泉旋風でちゃっかり後見人として、さらに安倍首相も生んだ清和会の大御所として今も影響力を持つ。東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長・森喜朗は現在もトップであり続けている。

 半径10メートル以内だけには絶賛愛された男、森喜朗。加藤紘一とはまさに対照的である。言わば「あんたが対照なんだから!」。

 この比較にこそ、平成政治の一面がみえると私は考える。

(プチ鹿島)http://www.msn.com/ja-jp/news/heisei/%e8%b0%b7%e5%9e%a3%e7%a6%8e%e4%b8%80%e3%80%8c%e3%81%82%e3%81%aa%e3%81%9f%e3%81%af%e5%a4%a7%e5%b0%86%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%a0%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%81%e3%80%8d%e2%80%95%e2%80%95%e2%80%9c%e5%8a%a0%e8%97%a4%e3%81%ae%e4%b9%b1%e2%80%9d%e3%81%a7%e5%a4%b1%e5%a2%9c%e3%81%97%e3%81%9f%e4%ba%ba%e3%80%81%e8%b8%8f%e3%81%bf%e5%8f%b0%e3%81%ab%e3%81%97%e3%81%9f%e4%ba%ba%e3%80%81%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%ae%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e4%ba%ba/ar-BBWnuri#page=2




この加藤の乱で
自民党左派というか自民党でもリベラルな集団は
自民党保守派に叩きもめされ・・・

今に至る・・

加藤紘一は自分の田舎山形2区の議員だった・・

正直なところは東北山形県人らしい・・ところ・・
自分も子供の頃から、知っている
子供心に政治家になりたかった、もちろん国会・・

ただ、この加藤紘一の得票には、どうやっても自分にはかなわない・・
ということで、自分は政治家になるのをあきらめたんである・・

小泉にはしてやられた・・
今もそうじゃないか・・
原発反対!などといいながら
投票は息子に入れます・・

違うだろ・・

ほんと反対なら
私は親族でも主義が違う人にはいれませんだろ・・
逆に私が野党とうから出て、、息子と戦います・・だろ!!

あんなこの馬鹿な小泉に踊らされた馬鹿な日本国民・・

小泉改革でどれだけ、自殺した人がいると思うのか・・



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