池袋暴走 松永さんの夫が会見
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このところ、気分が著しく落ち込んでいる。
体調不良もその一因ではあるが、救いようのない事件のニュースばかりを目にしているせいもあるだろう。心の中のモヤモヤが一向に晴れず、厭世的な気分が澱のように溜まっていく。日記が書けなくなっているのもそのせいで、なかなか明るい方向に思考を持っていくことができない。
池袋事故のような悲惨な事件が起きないような対策を何か考えられないものか、ここ数日、真剣に試行錯誤を続けているのだが、結論は「どうにもしようがない」という諦めに落ち着いてしまうのである。
「高齢者の運転免許は強制的に取り上げたらどうか」という議論、それが実現できるならとっくの昔に法制化されているだろう。高齢者による運転ミスは今に始まった話ではないからだ。
免許に年齢制限を設けられないのは、高齢のために移動手段が不自由となる老人にとってこそ、運転免許が不可欠と判断されているからである。認知症が発症するのも時期や症状に個人差があるため、何歳以上には即返上させるという線引きは難しい。結局は本人の「自主返上」に頼る以外に方法はない。
免許更新の際に、あまりに酷い連中はふるい落とせないものか、という意見も多々あるが、皆さんご承知のように、運転免許の更新制度くらいザルなものはない。車がないと生活できないと訴えられれば、多少の(あるいは多少でなくても)リスクはあっても合格にしてしまう、それが全国的な現状になっているという話だ。
強制的に免許停止処分にしたところで効果が見込めないことも見当がつく。運転しなきゃならないと固執する人間は、無免許でも運転してしまうに決まっている。結果的に無免許運転事故が増加するだけだ。自家用車自体を廃車にでもしない限り、状況は悪化するだけだろう。
どうにもならないことをどうにかしようとしてもどうにもならない。その行き場のないモヤモヤは、簡単に憎悪や怨嗟の念に結び付き、事態の改善をかえって困難にしていく。「上級国民」騒動などはその最たるものだ。
事故を回避するための手段を模索することもなく、ただ高齢者への差別意識だけが醸成されていく。事故を起こす起こさないに関わらず、高齢者であるというだけで忌避、嫌悪される風潮が形成されていくのだ。そしてこの流れも、もう止めようがないように私には見える。
もう老人と言える年齢になって、ああ、もう自分は世の中の邪魔者扱いなんだなあと実感していることも、私の落ち込みを加速化させているのである。
何とか気を取り直して、事故を防止するための有効な手段はないかとない知恵を絞ってみるのだが、ないものはないままだ。せいぜい「家族による説得に頼る」くらいしか思いつかない。けれどもこれが絶対でないことは。これまでの事故でも「本人が認知症になっているとは気づかなかった」「免許を返納するように勧めたが頑として拒絶された」などの家族の証言があったことでも分かることである。
今回の事故でも、加害者は以前に「運転をやめる」旨を吐露していたそうだが、ならばなぜ家族はそこでそうするように後押しをしなかったのだろうか、家族を責め立てたところで無意味だと分かってはいても、恨みに思わざるを得ない。
明かな人災であるにも関わらず、打つ手が何一つないのである。それは即ち、被害者のご主人の願いもむなしく、今後もまた同じような事故が頻繁に繰返されることを意味している。
いじめを見て見ぬふりをする人間もまたいじめに荷担しているという論理に則るならば、事故が起きる可能性を看過することもまた「罪」になると判断せざるを得なくなるが……。
我々は悲しみに沈む被害者家族の顔を見つめながら、この罪の意識をいつまで背負い続けなければならないのだろうか。
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