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2019年04月22日23:05

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4月も城三昧

 日記を書こう書こうと思って、早三週間が経ってしまいました。
 あまり整備されていない山中にあったり、整備されていても自然公園になっていたりする城の見学は、下草が生えてくるこの時期がそろそろ限界なんですよね。
 てなわけで、4月は地元の城跡を訪問してみました。
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 まずは伊勢原市にある丸山城(まるやまじょう)。
 鎌倉時代に築城されたとされるのが通説でしたが、最近では戦国時代に相模の国の守護だった扇谷上杉(おおぎがやうえすぎ)氏の居館だった、糟屋館(かすやかん)とする説が有力です。
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 城跡は公園として整備されていますが、貫くように国道246号線が通っています。
 この道は中世では矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)とか大山街道(おおやまかいどう)などと呼ばれていた重要な街道で、その道を扼する場所に位置している事から、その説が有力視されているそうです。
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 自動車道として整備される前の大山街道は、こんな感じでした。
 現地にある古い地図を見てみると、これでも重要な道の一つだった事が理解できます。
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 公園として整備されているので、園路が縄張りに則していないなどの難点はありますが、要所要所このような土塁が残っていたりします。
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 今は広場になっている主郭の周りは、切岸(きりきし)と言って人工的に削られた崖になっていて、現在でもかなりの急勾配を保ったまま残されています。
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 主郭の周りは腰曲輪(こしくるわ)とされています。
 舗装されている園路が周りから少し凹んでいるのがわかるでしょうか?
 この園路部分は空堀(からぼり)だったそうで、となると腰曲輪というよりは、空堀を挟んだ二重土塁(にじゅうどるい)だったのではと推測します。
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 国道246号線を挟んだ高部屋神社横の道は空堀の跡なんだそうで、実際歩いてみると結構な規模の縄張りだった事が理解できました。

 続いて14日に訪問したのは、横浜市都筑区にある茅ヶ崎城(ちがさきじょう)。
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 俗説としては平安時代に築城されたとされていますが言い伝えのレベルであって、信頼できる説ではありません。
 ただ、武蔵の国から鎌倉に通じている鎌倉往還(かまくらおうかん)が近くにあったり、北と東を川で防御された要衝であることから、鎌倉時代後期から地域の支配拠点兼防御陣地として整備されたものと思われます。
 また廃城後は近隣の村の催事ごとの際に集会場として利用されてもいたそうです。
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 港北ニュータウンという新しく開発された町のど真ん中に、公園化されているとはいえこれほどの城跡が残っているのも驚きです。
 二回ほど改修された形跡があるそうですが、このように巨大な空堀で曲輪間を隔てる造りは、室町時代前期のものなのではと思います。
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 史跡公園として素人にもわかりやすいように、このような立て看板が随所に設置されているのもいいですね。
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 本曲輪(ほんくるわ)とされている一番広い空間には、倉庫のような建物があったとされています。

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 城域南東部から登ってくる途中にある食い違い虎口跡。
 主郭からここを下って行った場所には屋敷があったと推定されているので、虎口があっておかしくはないですね。
 ・・・んー、でもそうなると、ここが大手門(おおてもん)という事になっちゃいませんかね?
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 東郭と伝わる、城域で最高地点がある場所。
 3メートル程の櫓を建てれば、3,5キロ程南にある小机城(こづくえじょう)を見る事が出来たとか。
 小机城は関東の戦国時代を語るには欠かせない重要な城の一つなので、茅ヶ崎城も乱世の世には欠かせない城だったんでしょうね。
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 持参した縄張り図によると、数年前まではこの辺りまで城域として人工地形が残されていたようなのですが、開発の波には勝てなかったようです。

 茅ヶ崎城から早淵川を挟んだ北側には、大塚・歳勝土遺跡公園という弥生時代の環濠集落の遺跡があります。
 弥生時代から人が住んでいた場所がこの時代になってニュータウンとして開発されるのも、結局人には「住みやすい場所がある」という事を言われているようで、なんともおかしい気分になります。
 一方、丸山城も「歩く事」が移動手段の全てだった時代から、モータリゼーション後に造られた道がほぼ同じ場所を選んでいるというのも、結局人間は「移動しやすい楽な場所」を選ぶんだな、と思ってしまいます。
 そう考えていると、所詮人間は自然に逆らえないんだなぁ、なんて事なんかも思ってみたりしちゃうのが、城巡りしていて面白く感じる事なんですよね。


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