って個人的なことを聞かないと話が進まないというのは
時代として考え直さないといけないなと常々思う。
どこかの国の「○○人」という括りだけで、卑下しても
※そのうち「目の前で」、
自分より、仕事ができて勤勉で、多くの人に愛されていることを
見せられて、無意味な敗北感を感じたり無駄な時間を過ごしたと
気が付いたり。
または
ジェンダーがどうとかを稚拙な思慮で卑下しても
※リピート
または
シンギュラリティを過ぎたAIを自己防衛的に卑下しても
※リピート
ダメな奴はダメ。
乗り越える奴は乗り越える。
卑下する奴は今日も明日も昨日も同じ場所。
心の不良債権ばかり増やし、誤魔化すために声だけが大きくなる。
手に持ってるスマホですら自分を置いて日々進んでる。
会社にいると会社の業績によって自分の凄さと勘違いするのと同じく。
ふと思う。
これは思考的に遅れてしまうかどうかで豊かさが全然違うな。と。
もちろん自分の主義はそのままでいいと思う。
それを「個性」として忘れてる人が多くいるのであえて書く。
でも入れておかないといけない本当意味の「寛容」が少ないかどうかが
拒絶感や無意識な差別につながり、鈍化、停滞感になるのだと思う。
いやー。
脳を菊練りしないとな。40代はもう固い。
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