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2019年03月30日23:09

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ミクシィの新たな船出に(69)(男女関係について、2)

 昨日からの続きですが、 やはり 今日は、予告させていただいた通り 聖と性について誤解なきよう 詳しく書いておくことにしました。

 聖と性は通じていると書きました。

でも ふつうは真逆に受け取っている人も多いのです。

ちゃんと説明させていただくために ここはまた キリストを持ち出します。

キリスト教会という宗教組織の考えには、特に罪についての考えには反対の考えを持っていますが、 それは キリストご自身の考えとも真逆だからです。

罪については これは教会組織を広めるために、様々な理由が生まれて そうなってしまったのでしょうけど、  最後の審判と言って 最後に悪人を永遠の地獄に落とすという教え。

そんな残虐な神がいたとしたら、善人もいつ約束なんてすっぽかして地獄に落とされるか解らないわけです。  これほど信頼できない存在はいないわけですからね。

すこしだけ そのへん説明を付け加えますが  神が全能なら どんな悪人の、その人がそうなってしまった原因をもとのもとから分かっていたわけです。

理解もできるだろうし、 もちろん止める力も全能ならあったわけです。

自由意志が 問題で 神さへ止めることができないというのなら、 それは神の あまりにもひどいむごい 遊び? ということになってしまいます。

キリストが 命がけで弟子たちに語ったことは、その真逆の心の世界ですよね。

こここそ、宗教改革しなくてはならないところなのに、ルターもニーチェもこの一番肝心のところを 命がけで語ってくれてはいません?

まだ まだ、キリスト教の宗教改革は これからとなるのかもしれませんね。


そして、ここにもう一つ キリスト教会が キリストの語ったことと真逆な解釈をしてしまったことがあります。

それが
 
性に関することなんです。

有名な「山上の垂訓」と言われているキリストの説法の部分なのですけど、

まず 「私は律法(法とか道徳とかと同じ意味)に反対するために来たのではない。 律法を完成するために来たのだ。・・・」と たぶん、めちゃくちゃ迫力ある荘厳な始まり方で始まっている 垂訓、 説法です。

道徳を完成するには 愛が必要だという意味だと思いますが  そこでの愛は 簡単に私流に言えば、 その面の教科書などで言われている「最高道徳こそ愛」とかいうものではなくって   あくまで素朴な人間の感性とともにある愛が 道徳より先に必要だという事を語っているはずなんです。 (詳しいその理由とかは、ここでは略しますが)

ともかく、 それは 次のふたつの 内容で 有名となっている垂訓です。

すぐ次に 「貧しさに安んずる人は幸せである。」という内容のものがあります。

昔は日本では「心の貧しいものは幸いである」と訳されていて それだと いろいろな変な解釈ができてしまうので問題となった個所です。

たしかにここは「貧しさに安んずる」と訳すのが正解だと私も思いますし、そうなら、これは、いつか書かせていただこうとおもっていますが、ほんとうに深い人生の要諦ともいえるものです。

そして、一番有名なのが 次の

「目には目を、歯に歯を、と昔から言われている。 しかし、私は言う。 

右のほほを打たれたら 左のほほを向けなさい。

もし悪人が、百歩歩くことを強要したら、二百歩ともに歩きなさい」

という部分です。 たぶん、大勢の人が一度は聞いたことのある部分です。

ここも ちゃんと考えれば めちゃくちゃ深い^^人生の機微を語っているところだと思えると思います。  

今回は、さらにその次の部分を問題としているわけなので、 略しますが これが介護の世界と重要なかかわりのある人の営みで最重要な心の部分だと思っています。

できるだけ早いうちに機会を作って 解説させていただこうと思っています。

が 問題は、 その次です。

教会組織の解釈、またそれに影響された学者たちの解釈は、 たぶんキリストの言われていることとは、まるで真逆なんです?

それは、前段と同じ文脈で こんなふうに始まる言葉なんです。

「昔から、姦通(他人の妻とセックスすること)は、最大の罪と言われている。 しかし私は言う・・・」というふうにです。

その頃は姦通の罪は、人殺しに等しい厳罰を受けるものだったようなのですが、 もちろんこれは、

しかし私は「「それには 反対だ」」という文脈であっても、 一番最初の言葉の通り「
その道徳や決まりとかを否定するというのではないのですが、 

それだけでは足りないとして、こう語る部分なのです。

「しかし、私は言う。 心の中で姦通しても それは姦通したことになるのだ」

ここを、キリスト教会や キリスト教の学者たちは、 「おおその通りだ 心の中でも他の人の妻とのセックスを想像したら、それは不浄なのだ」、とかいうふうに解釈してしまったんです。

これだけ長い間 誰もそのことを指摘してこなかったのですから、ここで、「それってすごい浅い解釈じゃないですか?」と 問いかけるには、説明の紙数が足りません。


詳しくは、このへんも またの機会にさせていただきますが、

正しい解釈の基本は、 

心の中で不浄なセックスをしても、実際に不浄なセックスをしてもそれは同じ不浄だということであり、 語られてはいなくても そのことを理解すれば、もちろん 美しいだけのセックスは、心の中で想像しても、実際にも美しいだけだということなんです。

なぜ 不浄とかいう感覚、いやらしいという感覚が セックスにあるのかと言うと、 それは 簡単に言えば 最初未熟な時には快感が浅すぎ、欲望だけに溺れてしまうからです。

そのぬくもりの深さ、快感のすばらしさが解ってこないと あるいはエクスタシーの静けさの体験が浅かったり、一時的すぎたりすると、 やはり欲望だけしか見えなくなり、そうなると そのまま欲望だけにとらわれてしまうからです。

セックスの快感が 本当に深ければ  こころの中の想像でも(「自慰」でも同じですよ)実際でも 深い幸せ感とともに、 相手をいたわる気持ち、愛する気持ちがわいてこないわけがないですし、 そうなれば、 そのすべてが 美しく感じられてくるということなのです。

そうしたら、インボにもなりようがないということもありますが、こうした性障害の現代病問題については また別に考えましょう。 今の文明社会では、このへン、本当に複雑なことになってしまっています。

今日、しっかり考えておいて欲しかったことは、

性が健全なら、 それこそが 優しい心、人のことを想える心の最大の源泉ですよという点です。

もちろん、小川のせせらぎに 癒されたりする時などのように 大自然に心が洗われても人は優しくなれます。

でも 本当に深いセックスの世界こそ それ以上の人への愛(嘘のない 形ではない、おべっかでもない^^真心そのもののことですが)の源泉だという点なんです。

いつも長いですけど すでにいつも以上に長くなってしまいましたね。


私は、母を介護して看取ったことで、介護の世界を知るようになったのですが、 知ってみて、というより知るほどにでもあるんですけど、 そこには、言葉で何と言ったらいいか解らないほどの 冷たくつらい隙間風が吹き荒れていたんです。

時にはぼろぼろ涙がでてきてしまうような世界です。

医療者、学者先生方、宗教家たちに、 たぶん 何かが足りないんです。


聖が足りないんです。 あるいは聖が 神秘化され、神棚に祭り上げられ、拝み倒され^^、めちゃくちゃに曲がっているんです。

老老在宅かいごに必要なのは、まずは聞くことです。 聞く耳の王となることです。
そして 最も適切なアドバイスができるようになることです。

アドバイスする口の王者となることです。

聖人になることです。  偉いとかかいいとかいうことではなくて、人間としてあたりまえの その心が大切だという事なんです。

聖と性、 聖には、性が必要。 正しく健全な性が必要。 


性は 性に通じる。

この叫びが シャウトが 涙が 少しはわかっていただけたかと思います。

キリストについてお話ししましたが、庶民の中には同じようにやさしい人はいっぱいいますよ。

ただ、新約聖書をちゃんと読むと、 私たちはやはりキリストのような人にはどこまでもどこまでも謙虚になれると思います。


今日は 以上としますが、

明日は、 では どうしたら ちゃんと快楽が 深く得られるのか 、いよいよ肝心の経絡性感帯、究極の性感帯のお話になっていきます。

是非、あしたのこの「日記」もお楽しみに♪


以上


おやすみなさい(^_-)-☆☆☆♪

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