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2019年03月19日14:31

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■■ 支配なき公共性 梅木達郎 ■

□□ われ、なにかを、あるいはだれかを呼び起こしつつも、そのものについては黙して語らず。目に見えるこの描線は、なにも言わないがためにあり、そこで言われていることを、それを言う行為によって抹消してしまうべじ。言われた内容を火に投じ、炎に包んで滅ぼすほかはなし。火なきところに灰はなし。
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『火ここになき灰』ジャック デリダ
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■ 支配なき公共性 梅木達郎 ■
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/2701X.html
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商品説明 ■ 火ここになき灰
ジャック・デリダ (著), 梅木 達郎 (訳)
□■「灰」「燃やすこと」「ホロコースト」を語ったデリダの文が引用されながら、「そこに灰がある」という一つの文について語り続け、まさにそれだけが全体の内容をなしている。翻訳の限界に挑んだ特異な書物。【「TRC MARC」の商品解説】
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□■ Copyright (c) 〜TOMOHISA SUZUMURA’S CRITICAL SPACE/鈴村智久の批評空間〜
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□■ ジャック・デリダ『火ここになき灰』
† ジャック・デリダ †
2007/09/1420:23 0 0
http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-23.html?sp
□□ われ、なにかを、あるいはだれかを呼び起こしつつも、そのものについては黙して語らず。目に見えるこの描線は、なにも言わないがためにあり、そこで言われていることを、それを言う行為によって抹消してしまうべじ。言われた内容を火に投じ、炎に包んで滅ぼすほかはなし。火なきところに灰はなし。(p33)
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一読してもこれだけでは解らないだろう。
「火」とはユダヤ教的に「全焼の供犠」=ホロコーストを意味する。
「灰」とは、ホロコーストとして捧げられた動物(雄羊のこと)の亡骸である。
デリダはユダヤ人であるので、第二次世界大戦の暗黒面であるホロコーストを、本来の宗教的意味である「火」「灰」という二つの因子に分解して、二人の男女のディアレクティケーとしてホロコースト論を展開する。
火ここになき灰とは、火=ホロコーストが終わった後の、ユダヤ人たちの亡骸=灰、という意味であろう。
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ちなみに、「そこに灰がある」とは「イリヤラサンドル」の訳語である。
これはレヴィナス思想の基礎的コンセプトである「イリヤ(ある)」とセリー構造を持っている。
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梅木達郎
支配なき公共性――デリダ・灰・複数性
発行元 : 洛北出版
四六判 ・ 上製 ・ 304頁
2005年3月発行
ISBN 4-903127-01-X
本体価格 2,600円

* 冊子付
「栞――『支配なき公共性』に寄せて」
【冊子執筆者】
鵜飼 哲、熊野純彦、森本浩一、宮崎裕助、山崎冬太
(五十音順)
目次 著者紹介 編集者より 関連情報 書評 → 注文する
〈脱構築以後〉の政治的思考とはいかなるものか? 〈存在の複数性〉はどのように思考することができるのか?
デリダ、アーレント、ハイデガー、ジュネ、ドゥギー、セリーヌたちとの対話を通じて〈来たるべき民主主義〉を考察する。

(本書より抜粋)「わたしは人を支配したくない、わたしは人に支配されたくない――デリダはいつもそう言っていたように思われる。その最後となってしまったセミネールの数々において、デリダはくりかえし「主権」について、力の支配の問題について論じていた。正義は力の共犯なしにはありえない。だがそのとき、正義は正義でなくなってしまう。デモクラシーは「クラシー」(力/支配)抜きにはなにものでもない。つまり、主権や支配の問題なしに、政治を語ることはできない。

支配の問題を導入せざるをえないのだが、それでもなお、支配を解体したり、それに抵抗する余地を残しておくこと、それが「政治的なもの」をめぐるデリダの言説の根幹にある問題である。だれからも支配されず、だれをも支配しない人びとの共存を、「民衆の支配」のもとにもたらすこと、それが「来るべきデモクラシー」の課題である。ただ、そうしたものはいまだかつて存在したことはなく、「来るべきもの」にとどまっている。

「支配」の問題は日々の実践についてまわる。したがって、人が眠り込んでしまう時にも覚醒していなければならない、これが脱構築の教えである。デリダ亡き後、われわれの眠りを安心して預けておくことができる人はもういない。われわれは、われわれ自身で、休息もなく、夜も眠らずに見張っていなければならない。それをする準備ができているだろうか。これからはわれわれの番なのだ。この責任を引き受けていくためにも、たぐいまれなテクストの読み手としてのデリダの姿をここに喚起してみたい。というのも、デリダはテクスト読解を支配の問題と無縁のものとは見ていなかったからである。」(141-142頁より)
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デリダ 梅木達夫
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