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2019年03月19日01:23

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実はこの現代に、最も貴重な“変人”だったのかもしれず。

彼の音楽遍歴も、その他の芸能活動にも特段の影響を受けたわけじゃないし、
作品その他を評価したこともないので、特別な感慨が湧くことはないんだけども・・

ただそれとは別に、何だかモヤモヤした感覚が今日一日渦巻いてた感じがあって、
どうにも気持ちが悪かった・・というとちょっとオーバーかもしれないが・・
何なんだろうとあれこれ考えていた。

巷には、ミュージシャンとしての評価や批評として「ヒット曲があるわけじゃない」
とか、役者として数多くの作品に出演し、尚も感動を与えた云々でもない・・
という物差しがあって、訃報に際する数多の言説が溢れる格好にある。

特に彼の場合、ミュージシャンとしての性質やキャラ、方向性としては
「ロックとしてのポピュラー性」にはなく、ドープというか、反抗的というか、
アングラ的というか・・乱雑に言えば「陽の当たらない地下で斜めに構えて」
演っていた・・そんな感じだったし、以後の活動や遍歴の隅々を観れば、
良くも悪くも“等身大のまんま”で生ききった・・と言っていいんじゃないかと。

これを、単に「わがまま」と解釈するか。それとも「貫いた」とするか。
はたまた「バカだった」とするのが妥当なのか・・
実際、三度も不祥事で捕まってることを取り上げる限り、バカだったとも十分言えるし、
希林さんとの経緯の数々を観ても「奇異で理解不能な変人」と言われたって
全然不思議がない。

なのに、なぜここまで事ある毎に取り上げられ、別角度から観て
「持ち上げられるような」扱いを受けられたのか・・
これほど不思議な事はないんだなぁ。普通に考えればとっくに
「消え去っていて不思議ない」はずなのに。

これを、単に「希林さんの夫であり続けたから」・・という理由はちょっと
無理筋過ぎると思うわけで。じゃあ「輝かしい経歴のお釣りで・・」
というのもまた違う。いやいや、単に時代性の中で、芸能メディアや世界が、
辿った時節と社会性の中では、トータルで今よりも「緩かった(厳しくなかった)だけ」
という“偶発性”だからだ・・とするのが、何となく妥当と思わせる一方で・・

しかしそれだって、彼の晩年は既に世の中や芸能の世界自体も
「厳しく」なっていたわけだから、老いと共に細い芸能活動は一層細っていたことまで
考えれば、少なくとも「隠居せざるを得なくなってた」はずでもある。
が、実際はそうではなかった。無論、活発とも言えなかったけど・・

彼を大きな括りで「芸能・文化人」として観るなら・・。
特に、「地下室ロックアーティストの性分」が基質にある前提で考える時、
世の中や社会性の至る所に“反発し”、“怒りや何らかの主張”を声高に、
身体で表現し放つ・・という原始的な行為と態様を、実は多くが潜在的に
受容(黙認)していた・・何処かに“理解していた”部分があったからじゃないか、
という気がするんであり。

「バカだ、奇異だ、変人だ」と言いながら、実は内心で認めていた・・みたいな。
このことは裏返すと、厳しさや縛り、あらゆる抑制の中で生きる現代人にとって、
自由奔放な彼に対する羨ましさ(嫉妬)・・というのではなく、
何処かに「共感性」があったからではないのか。
自分では出来ない「反発的行為」を、彼を通して行っている(疑似体験的な)・・
という部分があったんじゃないか、という。

そこを、芸能メディアもその世界にいる者も、暗黙の共通認識としてすくい取り、
世に放ちながら反応を伺うも、完全な批判や排除に至るまでの現象には至らない・・
それをもって「確信」したからこそ、彼を追い続けたのではないか。
つまり「ニーズが有る」と。

その中には、都知事選への立候補や事業仕分けの場に顔を出すなどの、
芸能以外の政治領域にもどうあれ足を踏み入れたことが、更なる話題性へと肉付けを
した格好にはあるけども。彼が御年も随分過ぎてから、大真面目な政治へと関心を
向けたことは、内容や経緯について些かの拙速性や、不十分な点が多々あろうとも、
それでも「反発心や怒り〜主張」という流れは、彼が若い頃から一貫して
行って来たことであって、少々持ち上げて言うならば

「歳に関係なく考えるべきは考え、言うべきは言う、やるべきはやる」という、
シンプルな力強さを、あの資質でも大真面目にやった姿は、一見してふざけてるようで、
実は大衆の中の素朴な部分を刺激していた・・と言える気がするのね。
他人の前で「内田裕也って素晴らしいよね!」って言うのが憚れてただけで・・。

元来の「ミュージシャン」として観るなら。
近年の「音楽に政治は持ち込むな!」なんていう、実に陳腐で滑稽な有り様に、
最も激しく怒ったのは彼かもしれないわけで。

いわんや「日本が好きで何が悪い!」なんぞと吐き捨てた何処ぞやのぼんぼんに、
「ロックスピリッツや音楽人魂のかけらもない」と、最も断罪したのは
他でもない、彼だったんじゃないか。

弱くて、無力で、何の権威も金もない。
だけど「それがどうした、オレには反発力がある!」とした。
その一端が、東日本大震災以後のボランティア行為にもあるんだろう。
この辺りは、泉谷しげるなんかとも共通点を見出せる。

彼がいつもいう「ロケンローラー」の定義は、おそらく誰しもが
明確に言い当てられないと思うのね。あまりに間口が広過ぎるし、何せ彼自身もまた
明確に言い切れてないんだから。その有りさまが滑稽でもありながら、
だけど何だか完全に邪険にするまでも至らない・・

結局、生き様とか行動力とかいう、ありふれた言説しかないのかもしれない。
しかし、こんな世の中にまで至って、何が真実なのか、何が公正なのかさえ
わからなくなってしまった現代に、もしかすると彼のように馬鹿げていて、
奇異だからこその中に、実は「真っ直ぐで聡明なもの」があったのかもしれないし、
それを細々と、揶揄されながらそれでも貫いた。悲運性や哀れみさえ纏いながらも・・。

その意味で、時代は「実に勿体無い“変人”を亡くした」のかもしれない。。

歌手で俳優の内田裕也さんが死去
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=5542578
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