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2019年03月01日17:40

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(再録)3・1運動とは何だったのか?(その2)

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今日は、3月1日です。今から90年前の今日、当時日本の統治下に在った朝鮮で、朝鮮の独立運動が目に見える形で発生し、当時の朝鮮に騒擾が起きる切っ掛けに成った事から、当時は「万歳事件」と呼ばれて居た事件から90年目の日に当たります。


日本人で、この日を意識して居る人は非常に少ないと思ひます。しかし、若い頃から日本と朝鮮(韓国)の歴史に関心を持ち続けて来た私は、毎年、この日をとても意識します。そこで、思ふ事を述べたいと思ふのですが、先ほど御紹介した柳宗悦が、あの様な悲痛な文章を書いた切っ掛けの一つは、その「万歳事件(3・1運動)」だったのです。


読んで明らかな事は、柳宗悦が、単に文化・芸術上の愛情を超えて、当時日本統治下に在った朝鮮の人々に対して、深い同情を抱いて居た事です。私自身、かつては柳宗悦のそうした心情に深く共鳴して居たし、今でも彼の人間的な心情に共感して余り有る事は変はりが有りません。


しかし、です。あの時代に生きて居た彼は、その時代の只中に居たからこそ、逆に見えなかった事が有ったのではないのか?日本と朝鮮の歴史を、自分なりに考え続けて来た私は、今、彼は、あの時代の朝鮮について、見落として居た事が多々有ったと、考えるに至って居ます。


以下に御紹介するのは、一人の韓国人が書いた本の一節です。一体、日本の朝鮮統治とは何であったのか?韓国人が書いたこの本のこの一節をお読み下さい。


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 李朝は1897年、国号を「大韓帝国」にあらため、年号を「光武」とした。王を皇帝と称し、表面的には五百十余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家を形成したが、実態は、変わるところがなかった。
 1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状をみかねて、目賀田種太郎(めがたたねたろう:1853〜1926)を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
 目賀田財政顧問と統監府は、朝鮮の歳入不足を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を実施したほか、直接支出で援助した。
 たとえば1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
 1908年度にはこれがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。
 統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
 そればかりでなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ、将来は開けない。
 1910年8月29日には、明治天皇から臨時恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きにされた。
 前述したとおり、李朝には元々、予算の編成能力などはなく、目賀田顧問の指導、監督の下で初めて予算が編成された。いかに李朝が非社会的な存在であったか、わかろうというものである。飢餓には食料と金が必要であって、名義と暴力では解決しない。

 日韓併合後の補充金と称する日本政府の持ち出し(日本人の税金)は、1911年が1235万円で、それ以前の平均2500万円の半額に減った。これは残りの半分を日本政府発行の公債と、日本からの借入金で補っており、毎年日本から約2000万円前後を調達するという状況は変わっていなかった。
 これは朝鮮自体の税収入の倍額に及んでいる。つまり朝鮮は、財政の過半から三分の二を日本人の税金によって賄った結果、ようやく近代化に向かって出発することができたのである。
 これ以外に、駐留日本軍二個師団の経費は、ずべて日本持ちであった。
 終戦後、独立した韓国・朝鮮の教育は、日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾するが、これがいかに歴史の実態を無視した身勝手、自己中心的解釈であるかはいうまでもない。
 日韓併合によって、搾取され、呻吟(しんぎん)したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。




(崔基鎬(チェ・ケイホ)著『日韓併合/韓民族を救った「日帝36年」の真実』 (祥伝社・2004年)19〜23ページより)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E9%9F%93%E4%BD%B5%E5%90%88%E2%80%95%E9%9F%93%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8C%E6%97%A5%E5%B8%9D36%E5%B9%B4%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%B4%94-%E5%9F%BA%E9%8E%AC/dp/4396612273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1551425178&sr=8-2&keywords=%E6%97%A5%E9%9F%93%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%80%80%E9%9F%93%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%82%92



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 この文章を書いたのは、韓国人です。21世紀に入って、まだ少数派ではありましょうが、韓国人の中から、この様な意見が出始めて居るのです。そうした、韓国人からも出始めた歴史見直しの流れの中で、柳宗悦の上の文章を読み直す時、私は、考え込まずには居られないのです。





 柳宗悦が朝鮮の文化と芸術を愛し、そして、独立を希求した当時の朝鮮民衆に同乗した事自体を私は批判する積もりは有りません。いかなる民族も、独立した存在でありたいと思ふのは、当然です。しかし、それでは、そもそも、朝鮮は何故、日韓併合によって独立を失はなければならなかったのか。そして、日韓併合後の日本は、果たして、ただ朝鮮の民衆に不幸を与えてだけだったのか?その点について、私が今も深く尊敬する柳宗悦の見方には、一面的な所が無かったと言えるのか、私は、考え込まざるを得ないのです。





人間のやる事には、良い面も悪い面も有ります。
ですから、日本の朝鮮統治が、全ての面で良い事ずくめだった等と言ふ
積もりは有りません。例えば、始めにお話した光化門の解体計画などは、今日の日本の行政にも見られる文化財の軽視の例で、これなどは非難されて当然の事です。




しかし、結局、その柳宗悦らの反対運動の結果、光化門が解体されなかった事も、歴史のもう一つの側面です。金美齢さんの言葉を借りて言へば、「歴史には光と影が有る」のであって、確かに、朝鮮総督府が光化門を解体しようとした事は恥ずべき事ですが、それを止めようとした日本人が居た事も、そうした日本人の反対によって、光化門が、結局、日本統治時代には守られた事も歴史の一面だったのです。そう言ふ点で、在日を含めた朝鮮民族の人々は、戦後、日本統治時代を公平に語って来たと言へるでしょうか?




話を3・1運動に戻しましょう。この事件について、私は、永年、当時の朝鮮の人々に深い同情を抱いて来ました。この事件では死者も出て居ます。ですから、日本人である私は、この事件に大変心を痛めて来たのです。しかし、そもそも、事件の真相は何だったのか?それは、どうも、若い頃の私が信じて居た様な単純な物ではなかった様です。


以下に御紹介するのは、かつて朝鮮総督府の高官の家族として、日本統治時代の朝鮮を自身で見聞きした人の回想です。これを読むと、実は、あの事件(3・1運動=万歳事件)は、必ずしも自然発生的な物ではなかった事が分かります。




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 私の一家の朝鮮との関わりは「万歳事件」に始まる。この事件については後に詳しく述べるが、大正八年の初め、第一次欧州大戦の講和会議がパリで開かれ、その席上、ウィルソン大統領が「民族自決」を高唱して以来、朝鮮独立を叫ぶ者が急激に活動を始めた。その後有力な人物が、亡命地米国から上海に現れて大韓国臨時政府大統領を称し、後に現実に大韓民国初代大統領になる李承晩であった。
 李はその後、第二次大戦が終わるまで米国ハワイで亡命生活をしていて、戦後すぐ意気揚々と「解放された」ソウルに米軍機で戻ってきたが、米国の戦後当初の朝鮮政策は信託統治であった。米国は朝鮮が自前で国家を運営できるとは考えていなかったのである。もちろん彼は信託統治などとんでもないと自前の政府を作ったが、その頑固な自信とは裏腹に、彼には現実政治を遂行する能力があるのではなく、空疎な信念に凝り固まって、何の役にも立たない無闇な反日教育を後に残し、韓国自体にも日韓関係にも、悪しき後遺症を長く残したのである。




(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 18〜19ページより)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82-%E9%A6%AC%E9%87%8E-%E5%91%A8%E4%BA%8C/dp/4894510944/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1551425281&sr=8-1&keywords=%E9%A6%AC%E9%87%8E%E5%91%A8%E4%BA%8C%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE




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 この本の中で、著者は、昭和13年に朝鮮総督府が編纂した『朝鮮総督府施政二十五年史』と言ふ資料に言及して、万歳事件(=3・1運動)の際には、民衆を組織的に扇動した運動家が存在した事、そして、その際、第一次世界大戦後のパリ講和会議で朝鮮の独立が認められたと言ふ、事実に反する流言が流布されて居た事を指摘して居ます。つまり、あの事件は、朝鮮民衆の間に自然発生的に起きた物ではなく、外国に居た一部の運動家が流言を利用して扇動した騒擾であった可能性が極めて高い事を指摘して居ます。


そして、もう一つ大事な事は、こうした独立運動の発生の後、当時の日本は、必ずしも、それを「弾圧」する事だけを考えて居たのではなかった事です。その点について、この本の著者は、こう述べて居ます。




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 ここで総督府が半島人の自然な要求である参政権について何をしていたかを述べておこう。総督府施政下において、朝鮮現地民の政治参加は、昭和初年から実現に向けて検討が進められていた。斎藤朝鮮総督府は朝鮮自治州案を持って上京したこともある。半島人の参政に内地延長論も当時論ぜられていた。柳宗悦など学者、評論家の中に熱心にそう言った論議をする人もあった。日本知識人たちの中に朝鮮独立論もあった。朝鮮における地方議員選挙は、斎藤実三代目総督時代から着実に実行されており、内地における県会に相当するものができ、議員が選出されていた。昭和四年光州道庁にその集会のための施設が建築中だったのを私は目撃している。国政参加については昭和十九年小磯首相の施政方針として、台湾、朝鮮の参政権実現に向かって、衆議院選挙法改正案を通常国会に提出し、貴衆両院の協賛を経て原案通り成立し、昭和二十年四月一日から施行する予定だった。


 これらは朝鮮総督府七奪史観では説明できない。日本の朝鮮統治の根底は同化、内鮮一体化であったのだ。

(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 189ページより)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82-%E9%A6%AC%E9%87%8E-%E5%91%A8%E4%BA%8C/dp/4894510944/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1551425281&sr=8-1&keywords=%E9%A6%AC%E9%87%8E%E5%91%A8%E4%BA%8C%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE



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 あの出来事から90年が経って、真相を検証する事は最早不可能に近いと思ひますが、こうした可能性をも視野に入れた、多角的な研究が、歴史家には求められて居ます。


(続く)


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■文大統領が演説、徴用工に言及せず 独立運動100周年
(朝日新聞デジタル - 03月01日 12:35)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5519192


韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領は1日、日本統治下の朝鮮半島で1919年に起きた「3・1独立運動」から100年を記念したソウルでの式典で演説した。「歴史を鏡とし」と訴え、日韓の協力を呼びかけた。元徴用工を巡る判決や慰安婦問題などの懸案には直接言及せず、外交摩擦を避ける姿勢を示した。解決に向けた具体的な方策には触れなかった。


 文氏は、日本が独立運動を鎮圧した際に多数の死傷者が出たことを、「蛮行」や「虐殺」といった言葉で紹介。「親日残滓(ざんし)の清算はあまりに長く先送りされた宿題だ」と語った。韓国で「親日」とは、日本の統治に積極的に協力した人たちを指す言葉だ。


 一方で、「隣国と外交で葛藤要因を作ろうということではない。親日残滓の清算も外交も未来志向で進むべきだ」と述べ、日本に謝罪を求める考えがないことを明らかにした。「親日は反省すべきであり、独立運動は礼遇されなければならないという価値を定めることだ」と説明した。


 文氏は「左右(陣営)の敵対は、日帝が民族を分裂させるために使った。我々が一日も早く清算すべき代表的な親日残滓だ」とも主張した。文政権が進める「積弊(チョクペ)(積み重なった旧来の弊害)清算」政策の影響で、保守と革新両勢力の対立が激化している状況を意識した発言とみられる。


 文氏は「力を合わせ、被害者の苦痛を実質的に癒やすとき、韓国と日本は心を通じた本当の友達になるだろう」とも述べた。最近の懸案となっている元徴用工や元慰安婦らを念頭に置いた発言とみられる。


 一方、文氏は新しい100年の指標として、南北統一を準備する「新韓(朝鮮)半島体制」を提唱した。南北関係を改善するため、中断している金剛山(クムガンサン)観光と開城(ケソン)工業団地の再開について米国と協議する考えを表明した。北朝鮮の非核化が進展した場合、南北の経済協力を実現させる経済共同委員会を作る考えも示した。


 文氏は演説で、2月末のハノイでの米朝首脳会談について、「意味のある進展」「重要な成果」と述べた。会談で合意は達成できなかったが、北朝鮮の非核化は文政権の最重要課題である南北関係改善の前提でもあり、会談の取り組み自体を評価した。


 文氏は「南北関係発展は米朝関係正常化、日朝関係正常化と結びつく。韓半島平和のため日本との協力も強化する」と訴えた。ただ、南北関係が進展しない限り、対日関係に集中する余裕は生まれないとの見方が出ている。


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