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2019年02月18日20:51

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ミクシィの新たな船出に(34、 突然ですが武道について少し書いていきます)

 喉風邪で 寒気や 咳も出ています。

この状態のまま、 歌について 実践的に進めてゆくのは難しいと思います。

このぐらいでは、仕事(設備業)も休めるわけではないですし、 ここは少し 間をおいておこうと思いました。

来週の土日は 休めるとおもいますので その時にまた 歌について進めていこうと思います。

昨日、これからのこの「日記」の ビジョンの例として 武道について少し触れましたが、

あれだけでは、解りにくいかと思いますので もう少し突っ込んでおきます。


人を殺す術でもある武道を極めたような人たちに なぜ 平和を願う気持ちの人が多いのか?

まず、そこを考えてみてください。

戦争のような状態に巻き込まれたら、 敵を殺さない神経でいられる人は、一人もいなくなると思います。

最初は 敵と解っていても 銃の引きがねも引けなった人たちが、 仲間がつぎつぎと殺されていく中で、 知らない間に 敵に銃を撃てるようになってゆく。

だんだんと 戦争の状況に神経が変わってゆくわけです。

一番最初に 敵を残忍に殺し始めるのは なんと僧侶たちだったという話も聞いています。

ふだん、口で平和平和と言っていても、それだけでは、むしろそのような状況には弱い存在なのでしょう。

でも、 やがては、 のどかな美しい日本の田舎に育った素朴な青年たちも 恐怖の中で 同じように残忍にもなっていってしまうのです。

そんな時に、 そこにこころが巻き込まれない人たち、 そんな状況下でも 神経は平和の神経がどこか保たれている人たち、 すべてを「見つめて」しまう人たち、 それが普段から殺し合いのような状況を深く理解している武道家たちなんです。

もちろん、そんな武道家が 同時に 大自然を愛する気持ちを持っていた場合のことなのですが、

表向きは それを隠していても 心の中では 誰よりも  その悲惨さのあってはならなさの深さを  心の奥の奥にまで刻み付けることになるのだと私には思えます。

そんな武道家の一人が  合気道道祖の「植芝盛平」という人です。

戦後、彼は神秘化されてしまい、

例えば 剣の名人が真剣で 自由に切り付けても かすることもできなかった話とか 

戦場でまわりから銃を撃たれても、こちらに向かう気の流れが先に流れてくるので それをよけていれば、軽くよけることができた、という 話とか、

相撲の大関の人を 5メートルも吹っ飛ばした話とか、

そういうのばかりが 伝わってしまっています。

それよりも、 道祖が朝晩 太陽に向かって平和を祈っていた 平和への悲願の心のほうがはるかに大事な点だと思います。

道祖は「合気道は愛だ」という言葉も残しています。

でも それは 上記の武道家のまごころのことであって、 頭で考えた「あるべき」道徳とは別質のものだったと思うのです。

私は 若い頃 偶然に その一番弟子だった斎藤先生( 他の先生方は 戦前のみでしかも 長い人で5年ぐらいしか道祖の下で修業していないらしいです。、斎藤先生は戦前戦後と 24年間も道祖の下で修業された方だったのです)にお会いしましたが、

斎藤先生は 合気道とは人殺しの術だともはっきり言っています。

そんなことを聞いた人は 高弟でもいないかもしれません。

けれど、同時に 合気道とは絶対的安定性なんだよ、とも話してくれました。

縁側でお茶を出してくださり、  庭の草花を指して、  あんなふうに大地が安定しているから草も木もまっすぐ太陽に向かって伸びていきそれぞれの美しさを咲かせるんだよ

とも言われたんです。


合気道は あの大地のような安定性がすべての基礎となっているんだよ、 と。



この 安定性の話も あまり聞かない話です。

その頃の 合気道は 合気剣のすぶりを3年やってからでないと合気道の技は教えてくれなかったそうですし、  そのするどい切り込みと ちゃんとした抵抗のもとに、その技は練習されていたのです。

だから、そこには 確かに 相手に合気する形での護身の術たりえ、 自分も相手もきづつけない理想の武術の追及者たりえたのだと私は思います。


戦後、合気道は 他の先生方により 別な質のものとなってしまいましたが、 斎藤先生は それを否定したりはしませんでした。

あらゆる流派があっていい、 だだできれば まず道祖の合気道をちゃんと身に着けてから、あたらしい流派を創造してほしい、

としか 斎藤先生は言いませんでした。


私も 武道でない合気道があったっていいと思います。

ですが、 やっぱり 私は 合気道は、武道の価値も追及してほしいのです。


実際の護身術も、私は考えているのですが、これは 合気道で言えば 武道の合気道で無ければ実際には使えないと思います。

(こうしたことの詳しいことは、実際に武道について書いてゆくときに、こちらの「日記」にも、書いてゆきます)


また、口で平和の武道というよりも、 やっぱり、実際にも自分も相手も できるだけ傷つけないで取り押さえたりする技の力のほうが大事だと思います。


戦後 その斎藤先生の岩間合気道は  平和を口に(理由に?)隅に追いやられてしまい、 斎藤先生が亡くなられた時には、 なんと 岩間の関係者以外の 合気道家はだれも参列しなかったと聞きます。

でも、 それでも 一つも愚痴や批判を口にしなかった斎藤先生は、  けだし 誰よりも様々な稽古のビデオを撮られています。

特にアメリカでの撮影には その奥義が 見え隠れしていると、今の私には思えます。

なので、 それをもとに 合気道家は、また合気道愛好者は、今からでも もともとの武道としての合気道をさぐってゆくことは可能なのだと思うのです。


何も 批判しなかった?

でありつつ 本物も 後々の世に伝えていた。

ここに 斎藤先生の本当のすごさがあるのだろうと私は思っているんです。


お酒の大好きな人で  お茶やお酒を飲んでいるときのように 力を抜いて 大地に身をゆだね、 くつろぐところを  いかす、絶対的安定性の武術、

私自身も自ら、心のダンスの道を通して 私も その復活をもくろんでいる一人なんです。

そのためには、 私は これからでも ボクシングやテコンドウなども 学ぼうと思っているんです。

詳しくは、すべて、 この「日記」にも その時が来たら^^、書いてゆきますね。


71歳、いつどこで がくっときて 要介護をされる側の人間へと転落していってもおかしくない年齢です。

今でこそ 丈夫にな体になっていますが、  踊りと言っても 心の世界ばかり追求していたので  体は   65歳ぐらいから踊りの技術との融合の世界を正式に求める時が来たのですが、その時までは、   血行もわるく、 万年便秘(平均一週間に一度)が半世紀もつづいてきた、虚弱体質となってしまっていた人間、

ですが、 ここにきて気が付いてきた 体操の世界、体の訓練の世界も やはり、一筋に一つの道をおいかけてきた生涯が、道を開いてくれていると思います。

こんなに風邪の症状のさなかでも すこしも食欲が落ちない状態というのも、 私の記憶では初めてことです。

このまま うまくいけば 私自身が 武道においても ある実践や実験をしながら、その動画をアップしながら、 (歌と同じように) 「日記」を進めていけるようになるかと思います。

実は、気持ちは、焦ってもいるんです。

急速に、世界一のスピードで高齢化社会になってしまい、どんどん、隙間風のつらさ、くるしさが 深刻にもなり、大きくもなってきている 介護業界の状況を  つらさから、むしろ楽しさへ、 味わいの深い世界へとパラダイムシフトするのが、 この「日記」の大きな目的なのですからね。

でも、 私も 斎藤先生のように、  できれば、 静かに  本当の平和の日を夢見て、穏やかに笑って、 すべてを進めてゆけるようにもなりたいと思っています。


武道について 昨日の補足を書かせていただきました。

きょうは、以上です。


おやすみなさい(^_-)-☆♪









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