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2019年02月15日21:21

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連れ合いのこと、、

‎みやかわ こういちろう‎ ― おおたか 静流
2月8日 15:11 ·
こんばんは、自分史をかいていて改めて気づいたんですが、今の67さいになる連れ合いは定時制高校来の長い付き合いだったんですね。思い出すんですが、初恋らしい、初恋はこれまで一度もしたことがなかった、女の子をみてもときめいたこともなかった、そんな自分に風穴を開けてくれたのは「奪還そして解放」という自主映画作りで親しくなった杉並高校定時制の映画同好会の友人の友人だった同校の三鷹、下連雀のアパートに一人住まいしていた女の子でした、、、ブレックファストクラブの不思議ちゃんに雰囲気はちかい、そばかすだらけの童顔の女の子。暗い感じの女の子でしたが、時折見せる笑顔、ほんとうにほっとするような笑顔だった、今にも、大粒の涙にくれそうな、かなしさいっぱいのかお、、ピカソがえがけば「なくおんな」きらりと光る目、やさしそうな童顔が大好きだったりしました、時に赤毛のアンが着ていそうな清潔そうで、質素、石鹸のにおいがしそうな、真っ白の木綿のドレスをきこんで突然自分の前にあらわれるのだった、むぎわら帽子にリボンがワンポイントアクセントになっている、てニコニコしている。、
片思いだったけれど、夏の湘南、江ノ電にのって、鎌倉、北鎌倉寺社めぐりをした、あさ、もよりの私鉄の改札口で待ち合わせた、遅くきて、恥ずかしげに微笑む、彼女を愛おしいと思った、神奈川の新興住宅地の測量のバイトにいっしょにいったり、都立大の活動家の紹介で杉並方南町にあった業界紙のテープおこしのバイトをいっしょにやったり、催涙ガスの明治公園、清水谷公園をデモした仲間でもあった、しかし、極端な男性恐怖症、理由がよくわからないまま、京都の叔父というひとにひきとられていった、以後音信不通になった、一人残されたセミしぐれの夏の下宿で
ぽかんとしていた、秋、その空隙をうめるように、いまの連れ合いが転校してきた、まえの片思いの女の子と正反対の性格の女の子だった、おないどし、ミニスカートをはいたカラっとしたケレンミのない積極的な女の子、オクテにはまぶしかった、中学校時代の水泳部の友人と春休みに伊豆大島に行く計画を下宿でたてていた、たまたまいっしょにいた彼女が自分もゆくといいだした、三人して東海汽船の時刻表をしらべたり、元町港ではぜ釣りをしよう、はぜつりならむかしやったことがある、えさはごかいかソーセージでもいいらしい、どっちかな、それから竿。リールなど釣具は職場、学校の釣り好きでならしている人から借りてこよう。いまいっている定時制高校の社会の先生は釣り好きらしい。マルクスがどうしたこうした、から突然なんの脈絡もなく、岩魚をつるにはどういう毛ばりがいいとか、やまめはいつがいいとか、とひとりしゃべりをはじめるのだった、くちのわるい生徒は先生もそうとう苦労してるんだなとおとなっぽく揶揄する。はだか電球の3畳の淋しい下宿、男女3人での共同謀議、女の子のミニスカートからのぞくパンストのリアリティだけが当時いたずらにまぶしかった、彼女とは以後殆んどの行動をともにした。生徒カイ役員、定時制高校共闘会議のメンバーでもあった、大学のバリケードにも初夏の風を白いミニスカートと共に送り届けてくれた、69〜70の反安保デモ、むせぶ催涙ガス漂う高湿気6月の汗臭いヘルメットヤッケの隊列にもいっしょだった、1972相模補給廠座り込みもいっしょにゴボウぬきされた,手足を担がれて、つれてゆかれ、軟禁された近所の公園から朝ひとりかえってきてゴム警棒であたまをなぐられたはなしをだれにともなくはなすのであった、定時制高校卒業後通っていた夜間の経理専門学校をサボって補給廠の戦いに参加したといっていた、東北、山形、鶴岡、うまれ、となりまちの、小中学校まで直近の姉と一緒に冬の日本海をみながら片道一時間あるかなければいけなかったこと、はたはたが豊漁だったこと、11人兄弟の末っ子だったという、甘えん坊で反抗的、よく放課後、学校近くの喫茶店で彼女の出身地,山形鶴岡のはなしをおもしろおかしくはなしてくれるのだった、山形鶴岡藩の末裔武家の娘出身の母親のはなしはことのほか、すきだったようだ、何度もきかされた、ふな大工の職人のおやっさん、のんだくれで、病気になって一家没落したというのが彼女の悲劇の肝らしい、集団就職で兄弟そろって東京に出てきたという、長女は田園調布のお金持ち宅の家政婦になった、一番親しくして頼りにしている年齢の近い一歳違いの姉は手が器用で機転がきいて、裁縫上手、のち彼女のむすめの結婚ドレスを作ったというのがつれあいの姉自慢。じぶんにはまね出来ない完璧な女性、姉のことそうみているようだった、そういう姉を蔑ろにする人間は許せないというのが彼女の義務感、さて裁縫みならいで都内の服飾メーカーに就職、今は蒲田のスナックの手伝いをやっていて、50がらみのマスターと同棲している、こんどそのスナックにつれていってあげる、後で考えると、この意味は完璧な姉のっしょうにんをもらいたかったらしい、遊び人のマスター、むかし、警視庁機動隊、鬼の4機にいて成田で学生にいじめられたとよくいっていた、まさかあ、あのいいかげんにつとまるわけないじゃん、そういってけらけらわらっていた、マスターと姉がいっしょに江ノ島から「いなだ」つりの仕立てをだしたという、サバがつれていとがおまつりして大騒ぎしたこと、ナブラがたった時、カツオ鳥の襲撃にあったこと、そのようすを自分のことのように熱心にはなすのだった、彼女自身も集団就職で厚木のソニーのトランジスタ工場で働いていたという、企業内3部制の定時制学校にかよっていた、都会風の民青の優しい若い男性職場リーダーがいてなにかと相談にのってくれたり、j自分をかわいがってくれたという、毎週日曜日、相模線平塚などの喫茶店で盛んにおこなわれていた政治学習かいにこわれて参加するようになった、しだいに政治に興味をもったという、音楽、フルートをよくする男性リーダーにひとめぼれしたと、しかしどういうわけか
こじれて、それが理由で転校を決意した、松原高校そばにアパートをかりた、近所の喫茶店でウェイトレスをしながら高校にかよいだした、しかし見た目以上にしっかりした女性だった、卒業後、簿記の勉強したいと夜間の専門学校にいった、かげにおもて自分のあやふやな生活をリードしてくれた、周囲の仲間は離婚したり、わかれたりがおおかった、外資系の会社を定年まで働き続けた。子供も独立。二児の母だ。よくこの年までやってきたものだ。おわり、
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