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2019年02月15日21:11

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おはようございます、今朝考えて見た事です

おはようございます、今朝考えて見た事です、「経歴書じみたものを書いた、ある人に叱られた、理由が良くわからないのである、何故彼が怒ったのか、で、いろいろ推理してみるのだった、俺がウソハッタリをついているインチキ人間と捕らえたのか、確かに[経歴書」はインチキくさいかもしれないかもしれない、仮にそうだとして果たして何が問題か、そういう風に逆に思うこともできるかもしれない、このことは書かれたもにがすべて事実に基づかないまったくのの架空のでっち上げであるといっていることを意味しているわけではない、一般化してみる、書かれたものの真実性とは何か。書かれたものに真実性があるというのははたして、書かれた物が現実そのものの忠実な鏡のような反映物であることなのか、しかし思い返すと、書かれたのもすべてはある時は現実であり、しかしまsたそれは書いた人間のある規則のもとにばらばらだった、それ自身なんの意味もなさなかった、「「現実」」の断片をそのルールによって再構成した、、つまりかれによって意味づけられた、現実(つまりフィクション、彼にとっては現実である)このようにとらえると書かれた現実の真実性はぐらついてくるのだ、極言すると「すべてが真実(少なくとも)書いたとうにんにとっては」しかしそれゆえうそっぽかたったりしえる、ここで小説なり文学作品なりについてあらためて考えてみる、そもそも小説で起きる事件なりを事実として読むひとはいないと思う、逆にノンフィクションとして書店に並んでいるものを小説つまりフィクションとして読む人もいないと思う、しかしどうだろう、この両者の違いって。考えるとマーケット上の惹起ぐらいの違いしかないのではないか、人はいろいろなことを考え感じる、さいかしそれらをすべて、ウソであるとか、真実んであるとか俄かには断定できない、つまりそれらはあるときには真実であり、またはフィクションである、自分とは何か、規定してみる、それは真実であり、真実ではない、自分は逃げ続ける、塚まえたと思うとするりと逃げてしまう、自分は未来においてのみ存在している、過去には存在しえない、真実とフィクションを往来しているものこそ文学作品なのだと思っている、そこではフィクション、ノンフィクションの境界線は意味をなさない。過去は恐くノンフィクションに属するのかもしれない、しかしそれが人間のすべてではない、みな未来に繋がっているから可能性としての総体としての彼のすべては可能性において真実であるともいえる、あってないののこそ彼のすべてある、つまり言い換えよう、彼はフィクションでありノンフィクションお引きつづっている限りにおいて、それはノンフィクションであり続ける、両義性をいきつづけている、そういうことだ、そのようなものとして[作品」をみることができないか、、いいかえて、自分にひきよせて書いてみる。経歴書にかいた「ねた」」はすべて「事実」である、しかしそれだけでは「全体」「ストーリー」の中では依然として異物で反発し合っている、アトムである、この異物を並べ替え、相互親和的に意味づけていく作業がつまり、書いている人間の頭のなかでおこなわれる、書くという作業である。である。一般的に「現実」そのものが二次加工品ともいえるともいえる、現実は断片的でそれ自身意味をもたない、一種のモンタージュの連続である、認識するとはこの流れているモンタージュとしての「現実」をある有意性において再構成してゆくことだ、レッテルを貼らないと記憶の道具箱の引き出しに収められない。記憶力が凄いといわれたことがある、ちょっと違うと思っていた、記憶力の問題というとピンとここないのだ、自分では想像力だと思っていた、レッテルを貼ることはある意味、ものの世界をある法則なりにもとづて分類することでまある、何の意味も無かった、現実、これを有意性において再組織してゆくのはつまり「想像力」の問題に属しているんだと思う。
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