■女性のナマハゲ、実現せず 抵抗強く、雰囲気を察し辞退
(朝日新聞デジタル - 12月31日 20:54)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5441377
「伝統」が、裏を返せば「因習・陋習」でありうること、新たな発想への狭量な否定でありうること、どんな風習にも、「初め」があり、その時においては「新奇な試み」であったことを想起したことがなく、我々が、様々な習俗を、利便性等によって、やすやすと捨て去ってきていて、今もその上で生を営んでいることを、まったく顧みもせずに、ひたすら「伝統」を語り、それを奉じるという事態は、まったくもって喜劇。
「見たことがない」ことが、彼の「誇りうる伝統の保守」であるらしいが、「ナマハゲという習俗の継承者が断たれること」を肯うというのだろうか。
まあ、「女性が日記を書く」「女性が投票する」「女性が車を運転する」等々も、また「見たことがなかった」ことであったのだが、ね。
「老人ホーム」だの「ベビーカー」だのという「新奇な言葉遣いを平気でするくせに」とか、「髷も結わず、洋服を着て、クリスマスを祝っている分際で」なんてことまでは言わないけれども、大抵の人の「伝統の擁護の仕方」の恣意性については理解してもらいたいし、このナマハゲを諦めた、というか、「諦めさせられた」事態というのは、所謂「忖度をさせられた」「俗情との結託」の結果なのだということも理解、というか、たまには「考えて」欲しい。
「自分が好きな」を「伝統だから」に換言して擁護するのは、なんというか、「お為ごかしの一種」と見えるのだ。
「お為ごかし」という言葉も知らずに、なんていうと、口が悪いと言われるだろうが、反射的に「伝統」という錦の御旗を振りかざす向きは、「陋習」という言い方すら知らない気がするんだな。
「善行」を「偽善」としか表現できないひとが、「露悪」を知らないようにね。
「ニュースピーク」のように、「言葉の絶滅」は、「思想の絶命」でもあるわけだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する