「理不尽な物々交換」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19488 (写真入り記)
ある日、教会の入口の前にぬいで置いておいたお気に入りの靴がなくなりました。代わりに、超オンボロで見るも無残な靴が置かれていました。
おそらく、「もうこれ以上履くことはできない!」という時に、私の靴を見つけて、物々交換して去って行ったのではないかと思います。
ショックでした。
お気に入りの靴がなくなったショックというよりも、何者かが住居不法侵入して、承諾した覚えのない理不尽な物々交換を決行したことに対するショックです。
呆然と立ち尽くしながら、イエス様が思い浮かびました。
イエス様もまた、承諾した覚えのない理不尽な物々交換を決行して下さったことに気づき、感謝しました。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(第二コリント8:9)
イエス様の物々交換は、イエス様が持っておられた富と、私たちの貧しさを交換して下さったのです。
キリスト教一般に、「清貧」を美徳と考える傾向があります。
主が私たちを低くされ、貧しくされ、砕かれた時には、そこに甘んじ、感謝しながら神を仰ぐことは大切です。しかし、主が祝福しようとされているのに、わざわざ貧しくなろうとする必要はありません。
聖書は次のように語ります。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13〜14)
キリストは、十字架で私たちののろいを身代わりに引き受けて下さいました。そして、代わりに、アブラハムの祝福を与えて下さったのです。
アブラハムは、『祝福の基』です。アブラハムが受けた祝福は、自らを富まし、大富豪にするというものではありませんでした。結果として豊かになりましたが、アブラハムの祝福は、アブラハムを通して全世界が祝福されるための祝福で、アブラハムは祝福の通路だったのです。
神が私たちを低くされる理由は、本当の意味で祝福されるためです。
祝福されることで高ぶったり、自分だけが祝福を享受するのではなく、高ぶることなく、低くされ、貧しくされた人の気持ちを知って、人々に祝福を分かち合う人になれるためです。
清貧にも感謝し、アブラハムの祝福にも感謝です。
主は、超理不尽と思えるような物々交換をし、信じる私たちを豊かに祝福して下さいました。
仮に理不尽であったとしても、主から与えられた祝福を分かち合い、物々交換をしていきたいものです。
私のお気に入りの靴と、超オンボロの靴を物々交換させてもらったことで、主の恵みを思い出せました。主の恵みに感謝致します。
『行く年、来る年』と言われますが、古いものを捨て去り、新しい祝福を頂きながら、新しい2019年を迎えたいですね。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17)
今年も一年ありがとうございました。
よい年をお迎え下さい。
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