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2018年12月16日13:37

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聖徳太子の植えたお茶の木。日本のお茶のルーツは聖徳太子だった。

今から10年ほど前に群馬県の粕川村(今は前橋市)の日帰り温泉「元気ランド」にニニギが行ったとき、そこの支配人から聖徳太子の植えたお茶の木の話を聞いた。
聖徳太子が植えたお茶の木が最近枯れてしまったと。
丁度その時に玄関先に大きな根っこが置いてあったのでニニギは「これがそのお茶の木ですか」と聞いたら「それではないよ」と言われた。(実は後でわかったのだが、それがお茶の木だった)

これは大変な情報だ。それが確認できれば日本のお茶の歴史が変わるし、聖徳太子のすべてが見えてくる。のちの情報でそのお茶の木は太子のお庭にあったとわかった。それを発見すれば、聖徳太子のお屋敷もわかる。日本の歴史が覆る。
そう思ってニニギはそのお茶の木を探したのです。何度も何度もその付近を走りまわって探したのです。お茶の木の話は本当なので必ずあると。

先日、聖徳太子にゆかりのある伊勢崎市の市会議員の方たちの集まりから「聖徳太子の話を聞きたい」と連絡をいただき、20人くらいのセミナーを伊勢崎市でひらいた。
そこで聖徳太子の植えたお茶の木の話をした。するとその市会議員の方のお父さんがいらしていて「そのお茶の木は私の実家にあった」と驚きのことを言われた。
10年間も探し回った聖徳太子のお茶の木がついに見つかったのである。


早速2回目の会合を行い、聖徳太子の墓参りとお茶の木の根っこの見学とその生えてた場所に行ってみました。
お茶の木の根っこは元気ランドが「置く場所が無いのでいらない」と言われて、お茶の木のあった家の親戚の方が引き取ったということで、その家の倉庫に伺った。
それは庭先の屋根の下に置いてありました。
間違いない聖徳太子が植えた日本最古のお茶の木。それはまだ内部が生きているようでまだ暖かい。周りに強い放射線を出してお入り。写真にとると周りに靄がかかる。(最初の左の写真)物すごい後神。

遂に聖徳太子のお茶の木に巡り会えた。後はその植えてあった場所である。
次に向かったのは女淵城址にある旧家。その家の庭にあったという。
行ってみると車を止めた場所に「聖観音堂」があった。聖徳太子ゆかりの観音様であり、周りは聖徳太子ゆかりの石碑ばかりである。ここは紛れもなく聖徳太子の屋敷跡である。
ニニギが以前からこの女淵城は聖徳太子のお屋敷だと言っていた通りだった。間違いない。
そしてその旧家はお堀の中にあった。間違いなく城内である。その裏庭にあったという。
ここがその生えてた場所です。

フォト

今でもその周りにはお茶の木がたくさんあります。
旧家の方に聞いたら、昔はお茶にしてみんなが飲んでいたと。
そういえばニニギの知り合いがすぐ近くの家に住んでいたが、そこもお茶の木だらけ。家の垣根は全てお茶の木です。
ここが日本のお茶の発症の地であることは間違いない。
日本のお茶の歴史を調べてみると、最も古いのは京都の高山寺にある唐の最澄上人がもたらしたと言う1200年前のお茶の木である。
そのほかには福岡の聖福寺にある800年前のお茶の木。
静岡藤枝にある300年前のお茶の木。
霧島にあるお茶の古木「お茶の神」(写真中央)。年代は不明だ。

そうなると聖徳太子が植えたお茶の木が1400年前で日本最古になる。
これは大発見だ。
日本のお茶は聖徳太子が広めたもので、1400年前から群馬県の粕川村が発祥の地であることが分かった。そして今もその子孫のお茶の木がたくさん残っており、民家も生け垣はお茶の木が植えられていたのです。

お茶の歴史は古く、中国雲南省付近が発祥の地と言われている。
最古のものは標高2500メートルの鎮源県にある古木で幹の直径が0,9メートル。高さが25,6メートル。
もう一つが800年前の「茶樹王」と言われる木で(最初の右の写真)幹の直径が0,8メートル、高さが20メートルである。(1998年に枯れた)
これからして聖徳太子のお茶の木も引けを取らない。間違いなく日本では最古の木である。

ではこの木はどのようにして中国からもたらされたのでしょう。
謎は簡単に解けた。
このお茶の木は最初の遣隋使が持ってきたものである。
最初の遣隋使は中国魏国の国王の息子が隊長となって親の魏国が果たせなかった皇帝の位を求めてやってきた。その魏国国王の息子はそのまま帰化し日本名を「高向玄理」(たかむこのくろまろ)と言った。のちの三蔵法師(玄僧三蔵)である。
彼は聖徳太子に使えて、のちの第二回目の遣隋使の小野妹子と共に中国に渡った。そして これにより国王は皇帝になって中国を統一したのである。その故郷中国に錦を飾った三蔵法師の話が中国で語り継がれているのです。
その三蔵法師は生前の聖徳太子さんを描いた掛け軸は後の天皇のあかしとなったのである。ニニギはその現物を写真にとらえることに成功した。しかしそれには蘇我入鹿の血がついており、絶対に世の中に出せない物である。

これでいお分かりであろう。お茶は第一回遣隋使で三蔵法師がもたらしたものが日本のお茶の始まりで、それを広めたのが聖徳太子である。聖徳太子はお茶を薬として広めたのである。
お茶の木一つで聖徳太子のすべてが見えてきた。」

これで日本の歴史はかなり書き換えなければならない。
ニニギは群馬県庁にこの女渕城址に「聖徳太子記念館」を建てるように進言しました。

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