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2018年12月06日13:37

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20世紀末期 平成馬鹿キチガイアベスネ夫世紀末 本当にいた悪代官

時代劇も真っ青、本当にいた悪代官の行状記
親子二代にわたって飛騨高山で悪行三昧 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54822


(花園 祐:ジャーナリスト)

「お主も悪よのう、越後屋」「いえいえ、お代官様こそ・・・」

 日本の時代劇において、もはや様式美すら感じさせるやり取りですが、ここに出てくる「お代官様」とは、江戸時代における地方官職の「代官」を指しています。江戸から離れた幕府直轄地(天領)において年貢を管理したり治安を維持するのが主な職務で、現代風に言えば地方にある子会社の社長みたいな役職でした。

 講談での悪役のイメージとは違い、在職中はできるだけ無難に過ごそうとするサラリーマン気質の代官が多かったといわれます。ただし中には、時代劇もびっくりするくらい悪行を繰り返した人物もいます。今回は、やりたい放題を繰り返した悪代官を巡る「大原騒動」という事件について紹介したいと思います。

地元商人と結託して金稼ぎ
 江戸時代、現在の岐阜県高山市は飛騨高山藩として独立した行政区分でした。当初は金森長近に始まる金森氏が代々治めていましたが、鉱山や木材収入を当て込んだ幕府によって金森氏は転封となり、1692年からは代官が治める幕府天領となりました。


現在の岐阜県高山市の伝統的建造物群保存地区(資料写真、出所:Wikipedia)
 1765年、大原紹正という人物が代官としてこの地にやってきました。大原紹正は飛騨代官に就任するや、山林保護を理由として、農民らに材木の伐採を禁止する措置を打ち出してきました。

次ページ年貢の大幅引き上げを強行
山地にある飛騨地方は昔から農地が狭かったため、地元農民にとって材木事業は生きていく上で必要不可欠な収入源でした。そのため、農民たちは伐採禁止措置の撤回を求めました。しかし、大原代官は聞き入れません。それどころか大原代官は、この年に幕府から材木の対価として飛騨高山藩へ支払われた3000石の米も、幕府への成果アピールとして返納すると言い出しました。

 3000石の米を返納すると、食料の不足や米価の高騰を招きます。農民らは一斉に反対し、一旦は中止することが約束されました。

 しかし大原代官は、この時すでに地元商人と結託していました。手元の3000石は一旦プールしておき、外部から安価で購入した米を幕府へ“返納”。米価が高騰したら、手元の3000石を市中に放出して利ざやを得るという計画を立てていたのです。

 しかしこの計画は農民たちに漏れてしまいます。怒った農民らは大原代官と結託していた商人の邸宅や倉庫を襲いました(「打ち壊し」といいます)。

 これに逆切れしたのが、言うまでもなく大原代官です。打ち壊しの首謀者らを次々と投獄し、自分が引き起こした騒動にもかかわらず強引に鎮圧したのです(ここまでを「明和騒動」といいます)。

年貢の大幅引き上げを強行
 明和騒動から数年後の1773年、大原代官はかねてから計画していた「検地」(田畑の面積と収量の調査)を近々実施することを村々へ通達します。この際、「検地は新田に限り、過去に検地をおこなった古い田畑には縄をかけない(現行の税率を維持する)」と約束しました。

 しかし、この約束はあっさり反故にされます。藩内のありとあらゆる農地が検地で見直され、検地後の年貢は従来と比べて1.5倍以上も増えることになりました。

 農民たちはただでさえ材木収入が断たれて苦境にあえいでいたこともあり、隣国や江戸に飛騨高山の現状を直訴するなど、対抗措置を取るようになります。

 しかし、農民側の抵抗が増えるにつれ、大原代官は関係者を投獄したり死刑に処するなどして弾圧を強め、対立はエスカレートしていきました。

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農民のストライキに徹底反撃
 こうした中、農民側は、農作物や炭などを農村から出荷しない抵抗策、今で言うストライキに打って出ます。このストライキによって藩内の町民は大いに困り、さすがの大原代官も農民側との話し合いに応じて、年貢高の調整や農民への拷問や弾圧を止めることを約束しました。

 しかし、この約束もやはり反故にされます。

 話し合いの後、大原代官は近隣の藩から2000人もの役人をかき集めて農村を強襲し、騒動の関係者らを100人以上ひっとらえました。この時はストライキの首謀者だけでなく、農民らに協力したとして神社の神主らも全員が死刑に処され、年貢も当初の予定通り大幅な引き上げが実施されました。

 この結果、飛騨高山藩の年貢高は大幅に上昇します。その成果を認めた幕府は1777年に大原代官をワンランク上の「郡代」(職務は代官と同じ)に昇進させました。

 こうしてこの世の春を謳歌した大原郡代でしたが、その翌年、病気によって失明し、さらにその翌年に急病であっさり死去してしまいました(ここまでを「安永騒動」といいます)。

新しくやって来た郡代はなんと・・・
 多くの犠牲者を出しながらも、大原郡代が亡くなったことで飛騨高山には平和が戻るかと思われました。しかし、待っていたのは思ってもみない展開でした。飛騨高山の農民と代官の戦いは、運命の第3ラウンドにもつれ込みます。

 大原郡代の死去後、飛騨高山の農民たちは、今度はどんな郡代がやってくるのか、大原紹正とはまったく違う善良な郡代に来てほしい、と期待していました。

 ところが、新しく代官に就任したのは、なんと大原郡代の息子、大原正純でした。

 代官職が親子で引き継がれるのは異例のことです。逆を言えば、それだけ父・大原紹正の「黄金色のお菓子」こと幕閣への献金工作が凄まじかったのではとみられています。

次ページ新しい郡代はどんな人物?

では、そんな父の跡を継いだ2代目の大原正純郡代は、どんな人物だったのか?

 浅間山の噴火に端を発する1783年の「天明の大飢饉」の際、幕府から見舞金として1600両の救済金が飛騨高山へ支給されました。この救済金は、本来は民衆に配られるお金です。ところが大原郡代は、「救済金をもらうための運動にお金を使ったから」と言って、これを丸ごと着服してしまいました。それどころか、領地内のそれぞれの村に「6000両の拠出金を出すように」というお触れまで出す始末でした。

 父親に続いて息子にまで弾圧された農民らは、怒り心頭に発します。直接、抵抗してもますます弾圧されることは目に見えています。農民たちは大原郡代の暴政を幕府に知らしめるために、江戸で登城中の老中相手に直訴するという行為に出ました。

 この時、直訴を受けたのが「寛政の改革」でおなじみの松平定信です。松平定信は飛騨高山の現状について調査する必要があるとみなし、現地を視察すべく使者を派遣しました。事に気が付いた大原郡代側は、農民と使者が接触しないよう様々な妨害工作を行います。しかし、うまく出し抜いた農民側は接触に成功し、大原郡代の悪行について語ったそうです。

 その後、大原郡代とその腹心らは江戸へ呼び出しを食らい、裁判にかけられます。下された結果は、大原郡代が八丈島へ流罪、腹心は数名が死罪となるなど、幕府の役人に対する処分としては異例なほどに厳しいものでした。

 一方、直訴に関わった農民らは軽い処分で済まされ(異説あり)、飛騨高山で投獄されていた農民らも解放されました。これにてめでたしめでたし、一件落着と相成ったと言われます(ここまでを「天明騒動」といいます)。

山岡鉄舟の父も飛騨に就任していた
 以上の「明和騒動」「安永騒動」「天明騒動」は総称して「大原騒動」と呼ばれ、代官の圧政に屈しなかった農民たちの物語として語り継がれています。

 なお、実際の代官は地元役人との結託を防ぐため3〜5年程度で交代させられました。冒頭でも説明したように、任期中はもめ事を避け無難にキャリアを務めようとする人が多かったそうです。

 また飛騨郡代に就任した人物の中には、幕臣として活躍し明治天皇の侍従も務めた山岡鉄舟の実父である小野高福もいました。そのため、鉄舟自身も幼少時の一時期を飛騨高山で過ごしていました。


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