会話や文章で繰り広げられる言葉には大きく分けて二つに分けられる。
それは受け止める側に対して・・・
言葉の受け止め方を支配するか
言葉の受け止め方を開放するか
だと私は考えている。
前者が命令だとするなら、後者は放任だと言える。
詳しく表現すれば、前者が結論に関して、他の余地を残さないのと反対に、後者は様々な結論の余地を残すことである。
例えば三島由紀夫は、その文学作品に於いて、百人が百人とも同じような受け止め方をするような方向性を目指していると思われる。
三島由紀夫は終生、太宰治のことを嫌いだと公言していたが、それは太宰治の作品が百人百様の受け止め方をされていることに対する反発があったのではないかと思うのだ。
そう考えると三島由紀夫が現代でも生きているなら、村上春樹に対しても、太宰に対する感情と同じものを抱いたのかもしれない。
皇族の婚約者を妊娠させてしまう、禁断の恋――三島由紀夫『春の雪 豊饒の海(一)』
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=5395574
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