まあ難しければ難しいで、修練(?)あるのみじゃあーっ って感じではあるので、難しくてもそれ自体は問題ではないのかも。
しかし誰からもネチネチ言われないように文章・文字・言葉で伝えるのってほんとにむずいな、
難しいならもうやらない!ってすぐあきらめるタイプも「普通に」多いと思うし。
でもさ、悪意があるのか無いのかは伝わるよね、どういう言葉を使ってたとしてもさ。慇懃無礼とかいう熟語があるくらいだし。
悪意があるやつがコバエの様に飛んでくるのはハプニングとして仕方がないとも言えるし、
悪意がない仲間を大切にすればいいだけなのかもな。コバエは…どこかに飛んでくのを待つか…笑
あと、コバエとは違うんだけど、「そんなの出来ない」「無理だ」みたいな呪いをわざわざかけてくる人も、普通にいるよね。
多分この人はそれまでの生活(生き延びてきた環境)の中でそれが癖になってるんだろうなあ。恐らくその人自身もそういう呪いをかけられてきたんだと推察する、それはきっと快適な人生ではなかったと思う。
だってもし、親とかが「まとも+楽観的」なパラメーター?てか属性をもってるタイプとか、「まとも+思慮深い」みたいなタイプだったら、迂闊に他人に呪いをまかないはずで、親を見て育つ子供もやはり迂闊に呪わないタイプになる気がする。
呪わなくても親と幸せに生きられるし。
気がするだけだけど。笑
だから「そんなの出来ない」系の呪い屋になっちゃった人ってある意味被害者だよね。
でもまあいいんだよ。人間は変化できる可能性を持っているから。そこに期待する。
ただ、実際に変わるには、本人が自身が呪い屋であることに疑問や違和感を抱くような何かきっかけは要る。
気付かないと、自分が「自分の方向性を変更しなければ!」って思えない…思えないなら、変わらない、変わる必要がないから。
例えば呼吸するように差別行為してる人とかはもう習慣としてあまりにも深く身に付いちゃってるから、恥を恥とも思わずやってるでそ。
これをなにがどうなったら気づきのきっかけになるのか、笑
「自分がされたら嫌でしょ」みたいな言葉掛けを地道にしてみたり、笑
まあなんにせよ、力で排除しようとしたりといった攻撃をしてもしても解決には遠いよね、
調和を真っ直ぐに見てるマイミクさんのとこで気付いたのは、劣等感が差別行為を生んでるので、それならば「劣等感をどうケアとかトリートメントとかするか?」なんだよね、我々が出来ることとしては。
自分がされたら嫌な事であっても、劣等感をぬぐい去るためならその嫌なことさえも他人にできてしまう、
それ程までに劣等感とは嫌なものであり、それ程までに追い詰められているということ…
だから、差別主義者に対して打つ手は、排除や攻撃ではないんだね。
差別主義者に劣等感を植え付けたのはナニ?ダレ?ナゼ?
だから、福祉の力により、生活の基盤、つまり安心感を底上げする事により、今よりはかなり日本のモラルが向上するんじゃないかなあ。
という、早くベーシックインカムやってくれ、っていう記事でした。(^_^)v
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