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2018年11月17日09:36

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大河ムービー『フレディーどん』

気になっていた映画『ボヘミアン・ラプソディ』を、14日(水)のレイトショーで観てきました。

予想以上によかったです。
と同時に、史実とフィクションの関係が大河ドラマみたいだな、とも思いました。

まず、エピソードの描き方は、かなり雑……というか、つまみ食いのレベル。時系列もかなり変。ボク自身は、クイーンの熱心なファンではないのですが、この辺の洋楽は一応専門分野(?)ではあるので、気になる部分が多々ありました。

クイーンが結成されたのは70年で、「キラークイーン」が大ヒットしたのは74年。この間にフレディーはソロでシングルを出していたりするのですが、映画では、結成後、「キラークイーン」で一気にスターダムに登りつめたように描かれています。

「俺たちは同じことはやらない。ロック・オペラをやる」とか言って、レコード会社と対立するシーンがありましたが、70年代前半のイギリスは、ロック・オペラが流行した時代です。デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』(72年)もその一つ。つまり、74年の時点では、ロック・オペラなんて流行遅れで、新しくもなんともない。でも、そういう時代背景をスルーして、あたかもクイーンがロック・オペラという新ジャンルを開拓したかのような描写になっています。

映画では全編でクイーンの曲がかかっているのですが、例外的にリック・ジェームスの「Super Freak」(1981年)がかかっているシーンがありました。どうしてなのか気になっていたら、「地獄へ道づれ」(1980年)の作曲シーンにつながります。どちらもベースラインが印象的な曲だから、この2曲を並べたいという気持ちはわかりますが、時系列的にはありえません。史実では、「地獄へ道づれ」はシックの影響と言われているのですが、シックの使用許可が得られなかったのかもしれません。

フレディーの異性愛〜同性愛の描写にしたって、かなり唐突な展開だし、きれいな話に修正してまとめていたように思います。メアリーと別れたのは別の女性に浮気したかららしいですが、映画では同性愛を告白して別れたことになっています。エイズに罹ったのは、不特定多数の男(男女?)と性交渉したからだと思われますが、そういうところもスルーされていて、「大スターの孤独と純愛」というような陳腐なストーリーでお茶を濁していた印象がぬぐえません。

なお、映画のクライマックスでもあるライブエイド(85年)の前に、フレディーがメンバーにエイズの告白をしていましたが、Wikipediaなどによると、エイズと診断されたのは87年らしいです。

この他にも、70年代のエピソードが、80年代のエピソードの後に出てきたりします。

また、映画では、悪役的な描かれ方もされていたマネージャーのジム・ビーチですが、この映画の制作にしっかり名前を連ねていますから、究極の自作自演といえます。(^_-)
(自作自演といえば、最近話題になっている、東海テレビ制作のドキュメンタリー「さよならテレビ」にも同じような傾向を感じます)

冒頭に書いたように、史実とフィクションのバランスのとり方、という点では、大河ドラマによく似ていると思います。大きな嘘はついていないし、個々のエピソードもそこそこ史実をふまえて作ってあります。その上で、エピソードの取捨選択や並べ方、史実だけではわからない内面描写で、史実とは違うドラマティックなストーリーを作っていく――と。

ただ、大河ドラマで、このレベルの脚本〜物語だったら、ぼろくそに批判されると思います。彼の出自とか、コンプレックスの問題なども、さわりを見せただけで、物語の基本線は、上にも書いたように「大スターの孤独と純愛」という、かなり陳腐なものですから。

ただ、この映画の場合、そうした問題はどうでもいいと思えます。
この映画から強く感じたのは、本を読めばわかることに尺やエネルギーを使わないで、映画でなければ表現できないことに全資源を集中投下するという、思い切りのいい制作姿勢です。

その最たるものが、フレディー役を含めた4人の再現度の高さ。これだけでも観る価値はあったと思います。ジョン・ディーコンのベースの弾き方なんかも、よく研究して真似ていました。フレディーを演じたラミ・マレックは、フレディーよりもやや可愛い印象を受けましたが、映画で見る場合は、そのくらいの方がちょうど良いのかもしれません。向井理や長谷川博己が、水木しげるや安藤百福を演じるのとは違うと思いますが、実際よりもちょっと可愛いというのは重要だと思います。特に、オッサン同士でキスしたりする作品の場合は、なおさらそうです。

人間には、頭の中で想像するしかない光景(この映画の場合、制作風景など)を、実際の画で見てみたい――という欲求があります。その構造は、ポルノやアダルトビデオと同じなのかもしれません。性欲を食欲に置き換えれば、「孤独のグルメ」なんかも構造は同じです。しかし、この種の映画の場合、そこが重要かつ最大の評価ポイントになります。

そして、そうした映像的な説得力に、あの音楽が加われば、エピソードの正確さなんてどうでもよくなります。描かれているエピソードに合わせて楽曲が選ばれていましたが、その解釈が正しいかどうかは別にして、楽曲の感動を高めるためのエピソード(フィクション)と考えれば、この映画自体が長編の音楽ビデオだとも言えます。

映画と音楽ビデオというのは、基本的な部分で共通点が多いと思います。本に比べたら、映画というのは情緒的な表現に向いたメディアなのは間違いないですから、改めて映画とは何か、映画というメディアの特性は何なのか、ということについて考えてみたくなりました。逆に言うと、史実とか物語を正確かつ緻密に伝えたいのであれば、映画というのは適切なメディアではないのでしょう。

話は変わりますが……、
「映画.com」で、他の人の感想を見てみましたが、書いている人の大多数がクイーンのことをよく知らないことに驚きました。クイーンのことをよく知らないで観て感動した――という感想が予想以上に多いです。知らない方が素直に感動できる、というのは、歴史ドラマでも同じなんで驚きませんが、そういう人が映画館に足を運んでいることに驚きます。

ドラムの俳優さんがイケメンだと思ったら、実際の人もそうだった――などと書いている人も複数います。ロジャー・テイラーは、今見ると小池徹平みたいな風貌なんですが、そんなことすら知らない人が、どうしてわざわざ映画館にまで足を運んで、お金を払ってクイーンの映画を観るのか、ボクにはさっぱりわかりません。(^^;;

もちろん、映画マニアの人が、クイーンのことはよく知らないけど……と言うならわかりますが、「映画.com」に書いている人って、映画マニアばかりなんでしょうか?

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