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2018年11月16日01:31

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遠藤ミチロウ。


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遠藤ミチロウ。

膠原病なのは知っていた。
リウマチもあり、いつギター弾けなくなるかわからないからと、「THE END」というドアーズのカバー中心のミチロウがギターを弾かないバンドも作っていた。
小倉にTHE END で来たときは僕自身よりげんきだった。

う〜ん、その前の膠原病入院後のライヴ、薬の影響?で保保のこけていたミチロウの風貌が変わっていた。いつも立って演奏し歌っていたミチロウが椅子に座っての公演だった。

私自身乾癬性神経痛の影響か足腰が痛くて動かないときだった。バス停から会場まで行くのはやっとだった。帰りはバス停までがたどり着かないのではないかと痛みに泣か思ってた。

ミチロウは全国を回るっている。すごいなぁと。
さすが鉄の男(スターリンは鉄の男の意味)。

今年小倉でのライヴが中止になり、膠原病悪化したのだと思っていた。
すい臓がんだった。手術を受けたという事。不通は気づいた時は助からない。

叔父がすい臓がんの診断されたとき、かなり調べたので、その困難さは少し走っている。

演劇の台本書くとき、意識したのはミチロウ。
ミチロウに影響受けなければ、吉本隆明も読まなかっただろし、栗本慎一郎を読んでもさっぱりだっただろう。世の中のこと自体、社会のこと、その中の人間という生まれながら使い古しなものへの興味もなかっただろう。

もう自分自身表現的な世界から30年も離れ、ここ数年頭もポーっとしてる。
でもこの世の中の動きを知ると、スターリンの曲が流れ、その中で生きていくことには、ミチロウの歌が聞こえる。

>言葉は生ごみ
>お前の下水道

最初に驚愕したミチロウのことば。

劇団解散してから絶望の中、ミチロウのライヴへ通う事だけが唯一生きてる時間だった。

ザ、のない、新生スターリン時代バブルの崩壊の兆しが見えだしたころかな、他の表現視野が沈黙し停滞していた時、彼はしどろもどろにでも現在を絞り出していた。
そのぼろぼろの姿が自分には美しくすら見えた。つらかったと思う。

「天国の扉」ボブディランのカバーなんだけど、そいんなスターリン時代の末期に即興で詩を付けた歌。初めて聞いた市川クラブジオ?だったかな、この曲と歌に圧倒され、終わった瞬間会場は氷ついていた。反応が悪いと勘違いしたのか、ミチロウは「帰る」と言って楽屋に引っ込んでしまった。何が何だかわからないけどショッキングな歌、死を今生きていることを突き付けられる体験だった。

ソロになってからは、「天国の扉」を聞くために通い詰めた。
スターリン〜ソロの初期はとても厳しい歌だった。年数がたつに従いだんだんやさしい歌に変わっていった。本質は同じなんだけど。

実は彼は追いつめられた時が最も光るタイプの人なんだ。
あまりにもすごい歌で、終わった後僕は何度か胃痙攣を起こしたことがある。
痛みとともに聞いたばかりの歌が内臓に浸み込んでくる。
苦しみが快感に変質する不思議な感覚、だれとも共有できない寂しさをかんじつつ、ボロアパートに帰って行った。

1999〜2000年年越しライヴでは休憩時間す外に出て話してくれた。
そのとき、「朝日のあたる家」のミチロウの歌唱の凄さのこと、ドアーズの「ジ・エンド」の日本語カバーしてほしいと訴えたけど、「ドアーズは短い曲の方がすきなんだよね」といわれたこと。
太陽黒点の周期とミチロウの活動周期のはなしとかもしたなぁ。

近年やっとミチロウの「THE END」日本語カバーが聴けたのはとっても嬉しかった。
あの時の話は覚えてないだろうけど。

だらだら、書いてるけど・・・・
一番思い出すのは、ザ・スターリン解散後、多分初のライヴ、上智大学の学園祭だった。初めて見たミチロウの血走った物凄い眼をしていた。このひとは、人間ではないのではないかと思わせるほどだった。ザ・スターリンの雰囲気がまだ残っていたんだなぁ。

もういちど、歌ってほしい。きっとかえってくる。








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