飛行機なんてない時代だし、運河だってスエズもパナマもない時代だから、手紙って何か月かかって届いたものだろう。時間がゆっくり流れる時代だろうけど、日本はそれでも幕末に向かって走り出していたころだろうなぁ。国内であっても手紙は何日も何か月もかかって届いたのだろうから、海の向こうじゃ何年かかり・・・
文面からもそういう時間の流れがわかるような。11月に書いた手紙がシーボルトに届くのは翌年になるだろうし、「来年の手紙を待っている」ってあるものなぁ。シーボルトも3通も手紙を書いていたのは、最初のお礼で分かるし。国外追放で入国禁止になった人を想うのも並大抵ではないだろう。今時の遠恋とは距離も時間も大違い。
お滝さんは、たしか大分あたりの出身だったと記憶しているけど。シーボルトだって生まれたころ、ドイツって国はまだないしなぁ。生誕地だって神聖ローマ帝国領からバイエルン領に組み込まれたり・・・国境近くってところだろう。東洋に興味があったら、オランダの東インド会社にツテを求めるのはそのころとしては当然で・・・ドイツにこの手の貿易やら植民地政策の組織はなかったのだから。
「おたくさ」は、「お滝さん」から来ているとどっかで読んだし、長崎ではアジサイのことだと通説だし。新大陸とか新発見の島とか星とかに発見者やゆかりの人の名前を付けるのは、西洋ではよく行われること。(アメリカだってアメリゴさんからでしょ)今は、アジサイの形をしたお菓子もある。
■「シーボルト様」切ない思い 妻の手紙、オランダで発見
(朝日新聞デジタル - 10月27日 17:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5350518
(記事本文)
19世紀の長崎で活躍したドイツ人医師シーボルト(1796〜1866)に宛てた妻たきの手紙が、オランダで見つかった。シーボルトが国外追放された直後に書かれたとみられ、愛する人と引き裂かれた悲しみを切々とつづっている。
「鎖国」期の日本で様々な資料を収集していたシーボルトは1828年、日本地図を持ち出そうとして露見し、国外追放となる。今回見つかったのは、帰国途中のインドネシア・バタビア(現在のジャカルタ)から、日本に残した妻、其扇(そのぎ、たき、滝)に出した手紙に対する返事。「寅(とら)十一月十一日(1830年12月25日)」の日付があり、帰国したシーボルトにたきが送った最初の手紙とみられる。
ライデン大学図書館が所蔵していたもので、西南学院大の宮崎克則教授(日本近世史)が現地で確認した。
手紙は女性のくずし字で記され、約3・4メートルに及ぶ。「涙が出ない日はない」「おいね(シーボルトとの娘、イネ)はなんでもわかるようになり、毎日あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています」などと、切ない思いがしたためられている。
出島に出入りしていたたきは、シーボルトとの間にイネをもうけた。追放された夫の帰りを待ったが、その後再婚した。宮崎さんは「シーボルトの私生活がわかる一級資料だ。行間からは彼女のしっかりした性格、夫への思いがよく伝わってくる」と話している。(編集委員・中村俊介)
■たきからシーボルトへの手紙(部分)
3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。お元気でいらっしゃると聞いて、とてもめでたく思っています。私とおいねも無事に暮らしています。船の旅を心配していましたが、滞りなくバタビアにお着きになって安心しました。
不思議なご縁で数年間おなじみになっていたところ、日本でいろいろと心配事が起こり、あなたは去年帰られました。涙が出ない日はありません。
お手紙をもらい、あなたのお顔を見た気持ちになり、とてもゆかしく思います。この手紙をあなたと思って、毎日忘れることはありません。おいねはなんでもわかるようになりました。毎日あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています(中略)。
私とおいねのことは心配しないでください。おじさんのところにいますからご安心ください。病気にならないよう祈っています。どうした縁でこうなったのでしょう。そのことばかり考えて暮らしています(中略)。
来年のお手紙を、首を長くして待っています。私は朝と夕にあなたの息災と延命を祈るよりほかはありません。来年はちょっとでもいいからお手紙をください。ひとえに待っています。申し上げたいことはたくさんありますが、次の手紙にします。名残惜しい筆を止めます。めでたくかしく。
寅十一月十一日 其扇
シーボルト様
(以下略)
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