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2018年10月28日00:07

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10月28日の日記

今日の出来事:1554年−岩剣城の戦い、1707年−宝永地震、1891年−濃尾地震、1876年−不平士族の反乱:萩の乱、1972年−中華人民共和国から日本に贈られたパンダ「カンカン」と「ランラン」が上野動物園に到着、1984年−天皇賞でミスターシービーが優勝し、中央競馬史上初の四冠馬となる、1993年−ドーハの悲劇:サッカー日本代表はロスタイムでイラクに得点され、引き分けたためW杯出場を逃す

今日は、岩剣城の戦いです。薩摩を統一した島津貴久は、大隅に進出しました。大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域でした。これが、島津氏の領土拡大における多大な障害となりました。1554年、島津氏の軍門に降った加治木城主・肝付兼盛を蒲生範清、祁答院良重、入来院重期、菱刈重豊らが攻めました。加治木を救援するために島津貴久は、一族の多くを従軍させました。嫡子・義久、次男・義弘、三男・歳久は、これが初陣となりました。島津貴久は、祁答院氏のいる岩剣城を攻める事で、加治木城の包囲を解こうと考えました。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清、祁答院一族ら2000余人が押し寄せました。島津軍は、蒲生軍を撃破して祁答院良重の子・重経、西俣盛家など50余人の首級を挙げました。島津貴久は続いて、1555年に帖佐平佐城を攻略し、1556年に松坂城を攻略しました。支城を3つ失った蒲生氏は、本拠の蒲生龍ヶ城に火をかけて祁答院へと逃げ帰りました。これにより、島津貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにする事になります。

次に、宝永地震です。宝永地震は、江戸時代の宝永4年に遠州灘沖から紀伊半島沖を震源として、発生した巨大地震です。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生し、記録に残る日本最大級の地震です。震度6以上と推定される地域は、駿河から西の東海地方沿岸部から、大阪平野、奈良盆地、紀伊半島、四国まで及び、さらに甲斐、信濃、出雲杵築地方や豊後にも一部震度6と推定される地域が分布しました。浦戸湾から侵入した津波によって高知城下周辺は一帯が海となり、久万、泰泉寺、薊野、一宮、布師田、介良、大津の山の根まで浸水しました。津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、久礼八幡宮が流失し、死者は200人に上りました。土佐藩主・山内豊隆は1年間「参勤交代」を免ぜられました。浜名湖と太平洋がつながる半島は、津波によって切り離されて島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し不通となりました。尾鷲では地震の1時間後に津波が押し寄せ、1000人が流死しました。大坂では地震の約2時間後に津波が到達し、安治川や木津川の河口から市街地へと侵入しました。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流されながら橋に衝突し、橋が破壊されました。道頓堀川では、家財道具を積み船で避難しようとした人々や橋に居た人々が投出されて溺死しました。この津波による溺死者は7000人余におよびました。地震および津波によって、全国で少なくとも死者2万人と言われています。そして、この宝永地震の49日後には富士山の側面で大噴火「宝永大噴火」が起こります。

その次に、濃尾地震です。濃尾地震は、1891年10月28日6時38分50秒に発生しました。震源は岐阜県本巣郡根尾村、規模はM8.0と指定されています。「根尾谷断層帯」が活動した典型的な直下型地震であり、日本の陸域で発生した地震としては観測史上最大です。濃尾2県と近隣の滋賀県や福井県にも被害は及びました。死者は7273名、負傷者17175名、全壊家屋は14万2177戸を数えました。岐阜県では濃尾地震が発生した10月28日を「岐阜県地震防災の日」として指定し、地震防災の啓発などを行っています。

最後に、不平士族の反乱:萩の乱です。萩の乱は、山口県の萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つです。熊本県で起こった「神風連の乱」と、福岡県で起こった「秋月の乱」に呼応し、山口県士族の前原一誠、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱です。前原一誠は吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作の「功山寺挙兵」に加わりました。「四境戦争」では小倉口の参謀として参戦、「戊辰戦争」では「北越戦争」に出兵し、参謀として「長岡城攻略戦」や「会津戦争」でも活躍しました。維新後は越後府判事や参議を勤めました。大村益次郎の死後は、兵部大輔を兼ねましたが大村益次郎の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対し、木戸孝允と対立しました。やがて、徴兵制を支持する山県有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷しました。奥平謙輔は「下関戦争」に先鋒隊士として参加、「干城隊」に配属されました。その後の「戊辰戦争」では「干城隊」の参謀として「報国隊」、「奇兵隊」とともに長岡、新発田、新潟を転戦しました。維新後は、越後府権判事として佐渡に赴任しましたが、職を辞して萩に戻りました。前参議・前原一誠と奥平謙輔は故郷で各地の不平士族と連絡を取っていました。熊本城下での「神風連の乱」を聞くと、旧藩校「明倫館」を拠点に同志を集め、県庁を挟撃するため徳山の同志に決起を促す使者を派遣しました。こうして、前原一誠を指導者とする「殉国軍」が挙兵しました。しかし、県庁襲撃が政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため山陰道を東上するよう方針を転換しました。しかし、悪天候で一旦萩に戻ったためそのまま市街戦となり、県令・関口隆吉を敗走させました。その後、前原一誠らは軍勢を小倉信一に任せて別行動をとりました。小倉信一らは萩で三浦梧楼少将が率いる広島鎮台と軍艦「孟春」の攻撃を受けて、政府軍により鎮圧されました。また、前原一誠・奥平謙輔ら幹部7名は、東京へ向かうため船舶に乗船し萩港を出港しましたが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中、島根県令・佐藤信寛らに逮捕されました。萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原一誠、奥平謙輔、佐世一清、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一が斬首となりました。なお、松下村塾の塾頭・玉木文之進(吉田松陰の叔父)は養子である玉木正誼(乃木希典の弟・萩での市街戦で戦死)や前原一誠をはじめ多くの塾生らが事件に関与した責任を感じ、切腹しました。

今日の誕生日:李成桂、徳川慶喜(江戸幕府第15代征夷大将軍)、蟹江敬三、江藤潤、小池真理子、斉藤暁、ビル・ゲイツ、嶋田隆司(ゆでたまご)、ジュリア・ロバーツ、Tama(元Hysteric Blue)、倉木麻衣、野呂佳代(元AKB48、元SDN48)、スザンヌ、菜々緒、ソラカラちゃん

今日の記念日:速記記念日、ABCの日、群馬県民の日、岐阜県地震防災の日、透明美肌の日、おだしの日

今日の「今日訓」:本日は、群馬県民の日です。古代、現在の群馬県と栃木県で「毛野国」を形成していました。これを上下に分けて「上毛野国」と「下毛野国」とし、後に「上野国(群馬)」と「下野国(栃木)」となりました。合わせて両毛とも呼ばれます。この毛野国を流れる川「毛野川」は、現在では「鬼怒川」という名で呼ばれています。群馬県の旧国名「上野国」の異称として「上州」や「上毛」と呼ばれる事もあります。県名は、前橋が属していた群馬郡から採用されました。群馬は「馬が群れる」という意味で、貴重な馬が群れている豊かな土地というのが由来です。1871年7月14日の「廃藩置県」により、小幡県、伊勢崎県、前橋県、岩鼻県、沼田県、安中県、高崎県、七日市県、館林県が誕生しました。その後10月28日に、小幡県、伊勢崎県、前橋県、岩鼻県、沼田県、安中県、高崎県、七日市県が統合され、群馬県となり、県庁が高崎に置かれました。この日が「群馬県民の日」となりました。1876年に館林県が群馬県に編入されました。1881年の「太政官布告」で、群馬県庁の所在地が高崎より前橋に改定となり、現在の群馬県になりました。1882年に田鎖綱紀が東京・日本橋で自ら考案した「速記法」の講習会を開催した事で「速記記念日」、1952年に「社団法人日本ABC協会の前身」の「ABC懇談会」が発足した事で「ABCの日」、1891年に「濃尾地震」が発生した事で「岐阜県地震防災の日」、おだしの素材となる鰹節の製法「燻乾カビ付け製法」を考案した和歌山県日高郡印南町の漁民・2代目角屋甚太郎が、1707年に発生した「宝永地震」で亡くなった事で「おだしの日」、「透明(10)美肌(28)」の語呂合わせで「透明美肌の日」となりました。
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