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2018年10月10日00:20

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10月10日の日記

今日の出来事:1518年−磨石城の戦い、1868年−会津戊辰戦争:涙橋の戦い、1780年−グレートハリケーンにより死者約2万人、歴史上最悪の被害、1944年−十・十空襲、米軍が沖縄本島を初空襲、那覇市の9割を焼失し死者548人、1964年−第18回オリンピック:東京オリンピックが開会、1969年−巨人の金田正一が日本プロ野球史上初の400勝を達成

今日は、磨石城の戦いです。尼子政久は、尼子経久の嫡男です。父の尼子経久は、尼子氏の戦国大名としての基盤を整えた名将ですが、尼子政久も父に劣らず智勇に優れた武将でした。軍略だけでなく笛などを嗜む教養人で、後土御門天皇からもその文才を高く評価されていました。尼子経久が出雲統一を成し得たのは、尼子政久の才能によるところもあり、「花実相の大将」と賞賛されていました。1518年、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的が、磨石城にて反旗を翻しました。尼子経久は、尼子政久を総大将とした軍勢を派遣して磨石城の攻略を目指しましたが、堅城であったために尼子の大軍を持ってしても容易には落ちませんでした。さらに、長期戦の様相となったため、尼子軍内部で厭戦気分が流れ始めました。1518年10月10日、尼子政久は得意の笛の音で味方の兵を鼓舞し、磨石城を激しく攻め立てました。しかし、城兵が笛の音が聞こえる方に向かって矢を放ち、一本が尼子政久の喉に当たって即死しました。享年31でした。尼子経久は将来を期待していた嫡子・政久の死を悲しむと同時に、復讐として次男・国久に命じて磨石城を激しく攻めさせました。尼子経久は、城兵の降伏を認めずに残らず討ち取り、桜井宗的は業火に飛び込んで自害しました。また、尼子経久は政久の系統が断絶する事を惜しみ、政久の嫡男・晴久に家督を譲りました。

次に、会津戊辰戦争:涙橋の戦いです。「会津娘子隊」は、会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女、中野竹子(18歳)らにより組織された女性のみの部隊です。新政府軍が鶴ヶ城下へ進攻してきた際、中野竹子は鶴ヶ城に入城できませんでした。中野竹子は、母・中野こう子、妹・中野優子と共に家を出て、同じく入城できなかった依田まき子・依田菊子・岡村ます子と「娘子隊」を結成しました。さらに、入城できなかった神保雪子(会津藩士・井上丘隅の娘で軍事奉行添役・神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、「娘子隊」は20数名になりました。会津藩主・松平容保の義姉である照姫が会津坂下に立ち退いた事を耳にした中野竹子は、照姫を護衛するため自発的に「娘子隊」と会津坂下に向かいました。しかし、「娘子隊」は照姫を発見する事が出来ず、会津坂下の法界寺に宿泊しました。翌日、付近の高瀬村にて家老・萱野権兵衛に従軍を申し出ましたが、女子であるために拒否されました。しかし、彼女らは「それでは、この場で自決します」と言ったため、家老・萱野権兵衛は明日入城する予定の旧江戸幕府軍の「衝鋒隊」への従軍を認めました。彼女たちは髪を切ったり、長刀に辞世の句を結わえたりして準備を整えました。翌日、古屋作久左衛門が率いる「衝鋒隊」へ合流しました。この「衝鋒隊」に萱野権兵衛の隊と長岡藩兵が合流し、400名の部隊になりました。部隊は柳橋方面へ向かいました。柳橋は付近に藩の刑場があり、家族がこの橋のたもとにあった井戸水で別れの水杯をかわした事から、柳橋は「涙橋」とも呼ばれていました。ここで長州・大垣藩兵と戦闘になりました。「娘子隊」は、この「涙橋の戦い」で奮闘しましたが、中野竹子が額に銃弾を受けて討死しました。中野竹子の首級は、政府軍に奪われないために妹・中野優子により介錯され、白羽二重に包んで回収されました。中野竹子が銃弾を受けて、倒れた際に握られていた薙刀に結ばれていた辞世の句です。「もののふの 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」 神保雪子もこの戦いで自害しました。この戦いの後、「娘子隊」は鶴ヶ城に入り、照姫と面会して籠城の支援を行っています。

その次に、グレートハリケーンがバルバドス周辺海域を通過です。グレート・ハリケーンが発生したのは「アメリカ独立戦争」のさなかでした。当時、イギリスは対アメリカ海上封鎖を行っており、西インド諸島ではイギリス艦隊とアメリカ側についた国々の艦隊が、島々の支配権や制海権を巡って戦っていました。ハリケーンはちょうど小アンティル諸島周辺を巡り争っていたイギリス艦隊とフランス艦隊を直撃し、双方の艦隊は大嵐に襲われて大きな損傷を被って散り散りになりました。小アンティル諸島で荒れ狂ったハリケーンは、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの各国艦隊の水兵数千人の命を奪いました。イギリス艦隊の司令官だったジョージ・ロドニー提督は、ハリケーンの後ニューヨークから西インド諸島に戻りましたが、バルバドスに残した12隻の戦艦のうち8隻が沈没し、その乗員のほとんどが遭難した事を知りました。また、彼の指揮下にあった艦船もほとんどが損傷した事が分かりました。ハリケーン被害を調査するため送られたイギリス軍の偵察隊が報告したところによれば、大嵐は10月10日から12日にかけて、2日以上の間バルバドス周辺海域にとどまり続けました。バルバドス島にあった木々や建物は、ほぼすべて地上になぎ倒されていました。漁船数十隻も漁に出たまま戻りませんでした。死者は4326人に上り、島に住むほぼすべての家族はハリケーンで身内を失いました。破壊の具合があまりにすさまじかったため、偵察隊は嵐と地震が同時に襲ったと誤った結論を出したほどでした。ハリケーンは、マルティニーク島で9000人の死者を出しました。またセントルシア島をはじめ、小アンティル諸島の他の島でも多数の死亡者を出しました。シント・ユースタティウス島では4000〜5000人が死亡しました。ハリケーンはこの後、プエルトリコ島の南西隅をかすめ、北西方向へ移動していきました。このグレート・ハリケーンは、大西洋を襲ったハリケーン(熱帯低気圧)の中でも、歴史上最悪の被害を出しました。このハリケーンに襲われたカリブ海の小アンティル諸島の島々、マルティニーク島、シント・ユースタティウス島、バルバドス島などは、およそ2万2千人が死亡するという壊滅的な被害を受けました。また、海上での死者も数千人に上ると見られています。

その次の次に、十・十空襲です。マリアナ諸島の攻略を終えたアメリカ軍は、次の作戦としてフィリピンへの進攻を準備していました。これに先立って、フィリピン守備の支援拠点となる南西諸島から台湾方面に散在する日本軍基地を、機動部隊による空襲で破壊する事にしました。その一環として沖縄諸島も攻撃目標に選ばれました。アメリカ艦隊は、発見される事なく沖縄近海に接近しました。午前6時前、アメリカ艦隊は沖縄本島に向けて最初の攻撃隊を出動させました。午前6時45分、第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始しました。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けました。アメリカ艦隊は、その後も第4次攻撃隊までを午前中に発進させ、午後にも第5次攻撃隊を繰り出しました。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1396機に達しました。まず、アメリカ軍機は制空権奪取のため飛行場を攻撃目標としました。日本の航空部隊は、空中退避が間に合わないまま、多くが地上撃破されました。独立飛行第23中隊は離陸に成功したものの、第2次攻撃隊と交戦して6機が撃墜され、3機が不時着大破など計10機を失いました。第2次以降は、那覇港や運天港などに停泊中の艦船も攻撃目標となり、疎開輸送に活躍していた潜水母艦「迅鯨」や満州国海上警察隊の「海威」(元駆逐艦)など大型の艦艇から、魚雷艇・カロ艇・甲標的のような小型戦闘艇まで次々と撃沈されました。徴用された汽船はもちろん、作業用の門橋や、沿岸を航行中の漁船までも機銃掃射などにより徹底的に攻撃されました。輸送船の被害は比較的大型の汽船が那覇港で5隻と瀬底島錨地で2隻だったほか、小型船が膨大な数に上りました。本島以外の沖縄諸島各地にも攻撃は向けられました。慶良間諸島には8回にわたり延べ60機が飛来し、主に漁船を狙った機銃掃射を行いました。宮古島では午前と午後に1回ずつ各16機による空襲があり、九九式襲撃機3機など陸軍機9機破壊、陸軍徴用輸送船「廣田丸」が撃沈、民家13軒半焼などの被害が出ました。石垣島には8機が早朝に飛来しました。久米島西方で陸軍徴用輸送船「江龍丸」が撃沈されました。大東島地区には午後になって延べ8機が飛来し、飛行場や海軍船を銃爆撃しました。大東島へ航行中の海軍徴用小型船2隻が沈んだほか、沖大東島付近で特設掃海艇「第一拓南丸」が炎上擱座しました。攻撃は沖縄諸島にとどまらず、鹿児島県の奄美群島にも及びました。奄美大島では10日早朝から3回・延べ45機以上が来襲して、付近の船舶や砲台を銃爆撃しました。徳之島では、午前8時頃に近海の機帆船が銃撃され、午後には飛行場が攻撃を受けて、一式戦闘機3機・四式戦闘機1機・九九式襲撃機5機など陸軍機14機が破壊されました。日本側の被害は甚大であった一方、アメリカ軍は21機の航空機を失っただけでした。沖縄連隊区司令官の井口駿三大佐をはじめ、陸海軍合わせて軍人・軍属218人が戦死、243人が負傷したほか、陸軍関係の民間作業員約120人が死亡、約70人が負傷しました。民間人の被害も各地で生じました。最も被害の大きかったのは那覇市で、11日まで続いた火災により当時の市内市街地のうち9割が焼失し、死者は255名にのぼりました。本島全体では330人が死亡し、455人が負傷しました。

最後に、東京オリンピックが開会です。日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックです。また、有色人種国家における史上初のオリンピックになりました。日本は、「第二次世界大戦」で敗戦し急速な復活を遂げました。再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つ大会になりました。10月10日が選ばれた理由は「東京の晴れの特異日」である事からでした。1940年大会の開催権を返上した「東京」は、1960年のオリンピックに立候補しましたが開催地投票でローマに敗れました。次に1964年の大会に立候補し、西ドイツのミュンヘンにて開催されたIOC総会で欧米の3都市を破り開催地に選出されました。得票数は東京34票、デトロイト(アメリカ)10票、ウィーン(オーストリア)9票、ブリュッセル(ベルギー)5票でした。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなりました。
金メダル16個:桜井孝雄(ボクシングバンタム級)、三宅義信(ウエイトリフティングフェザー級)、市口政光(レスリンググレコローマンバンタム級)、花原勉(レスリンググレコローマンフライ級)、上武洋次郎(レスリングフリースタイルバンタム級)、渡辺長武(レスリングフリースタイルフェザー級)、吉田義勝(レスリングフリースタイルフライ級)、中谷雄英(柔道軽量級)、猪熊功(柔道重量級)、岡野功(柔道中量級)、早田卓次(体操男子つり輪)、山下治広(体操男子跳馬)、遠藤幸雄(体操男子平行棒、体操男子個人総合)、遠藤幸雄・小野喬・鶴見修治・早田卓次・三栗崇・山下治広(体操男子団体総合)、磯辺サダ・河西昌枝・近藤雅子・佐々木節子・篠崎洋子・渋木綾乃・谷田絹子・半田百合子・藤本佑子・松村勝美・松村好子・宮本恵美子(バレーボール女子)
銀メダル5個:神永昭夫(柔道無差別級)、鶴見修治(体操男子あん馬、体操男子個人総合、体操男子平行棒)、遠藤幸雄(体操男子床運動)
銅メダル8個:円谷幸吉(陸上男子マラソン)、一ノ関史郎(ウエイトリフティングバンタム級)、大内仁(ウエイトリフティングミドル級)、堀内岩雄(レスリングフリースタイルライト級)、吉川貴久(ライフル射撃男子フリーピストル)、岩崎邦宏・岡部幸明・庄司敏夫・福井誠(競泳男子800m自由形リレー)、相原俊子・池田敬子・小野清子・千葉吟子・辻宏子・中村多仁子(体操女子団体)、池田尚弘・小瀬戸俊昭・小山勉・佐藤安孝・菅原貞敬・出町豊・猫田勝敏・南将之・森山輝久・中村祐造・樋口時彦(バレーボール男子)

今日の誕生日:松平春嶽、野坂昭如、渚まゆみ、菅直人、デイヴィッド・リー・ロス(ヴァン・ヘイレン)、むつ利之、高橋留美子、風見しんご、TOSHI(X JAPAN)、比企理恵、森内俊之、晴山さおり、小沢一敬(スピードワゴン)、佐藤仁美、栗山千明、宮里美香、カイくん(お父さん犬)、一文字隼人(仮面ライダー2号)、灰原達之、森沢優(クリィミーマミ)、桜庭裕一郎、リン・ミンメイ、うずまきナルト、坂田銀時、野原みさえ、竜千士氷

今日の記念日:世界メンタルヘルス・デー、世界死刑廃止の日、マグロの日、缶詰の日、目の愛護デー、アイメイト・デー、貯金箱の日、肉だんごの日、銭湯の日、釣りの日、冷凍めんの日、転倒予防の日、トマトの日、お好み焼の日、LPガスの日、手と手の日、赤ちゃんの日、JUJUの日、てんとう虫の日、朝礼の日、ふとんの日、トッポの日、充実野菜の日、ワンカップの日、おもちの日、和太鼓の日、トートバッグの日、いいおでんの日、亀田の柿の種の日、ドラムの日、球根の日、今の日、TOTO(トト)の日、ちくわぶの日、襖の日、萌の日、ポテトサラダの日

今日の「今日訓」:本日は、世界保健機構が協賛する国際デー「世界メンタルヘルス・デー」、2003年に「死刑廃止世界連盟」が設置した「世界死刑廃止の日」、726年、聖武天皇の伴で明石に赴いた山部赤人が、まぐろ漁を称えた歌を詠んだ事で「マグロの日」、1877年、北海道石狩町で日本最初の缶詰(サケ)が作られた事で「缶詰の日」、1971年に「東京盲導犬協会」が東京都から財団法人として認められた事で「アイメイト・デー」、1964年10月10日に「東京オリンピック」が開催された時、国立競技場の聖火がLPガスで点火された事で「LPガスの日」、1964年10月10日に世界で初めて発売されたカップ酒「ワンカップ」が誕生した事で「ワンカップの日」、語呂合わせ記念日:「10・10」を横に倒すと眉と目の形に見える事から「目の愛護デー」、1をコインの投入口、0をコインに見立てて「貯金箱の日」、「10・10」の形が串とだんごを連想させる事から「肉だんごの日」、10と10が角餅と丸餅が並ぶ形に見える事で「おもちの日」、1010で千十(せんとお)となり「銭湯の日」、魚の異名の一つである「とと」から「釣りの日」、「れい(0)とう(10)」で「冷凍めんの日」、「てん(ten)とう(10)」で「転倒防止の日」、「ト(10)マト(10)」で「トマトの日」、お好み焼を焼く音「ジュー(10)ジュー(10)」で「お好み焼の日」、「10(てん)と10(てん)」で「手と手の日」、妊娠は「十月十日(とつきとうか)」で「赤ちゃんの日」、「10(じゅ)10(じゅ)」で「JUJUの日」、「てん(10)とう(10)」で「てんとう虫の日」、1010で「一礼一礼」で「朝礼の日」、「ふ(2)と(10)ん」で「ふとんの日」、「1と0」で「トッポの日」、「10日」で「充実野菜の日」、10と10で「ドンドン」で「和太鼓の日」、10と10で「トート」で「トートバッグの日」、「1(い)1(い)0(お)0(でん)」で「いいおでんの日」、1が「種」で、0が「ピーナッツ」で「亀田の柿の種の日」、「1(スティック)0(太鼓)1(スティック)0(太鼓)」で「ドラムの日」、1と0を縦につなげると球根から芽が出ているように見える事から「球根の日」、「い(1)ま(0)」の語呂合わせで「今の日」、10と10で「TO(ト)TO(ト)」の語呂合わせで「TOTO(トト)の日」、「0」をちくわぶの棒状の形と穴に見立てて「ちくわぶの日」、10月が「住生活月間」で戸を葦戸から襖に変える時期で、10日は和襖の芯が組子で、十が組子の骨の交差を現わしている事で「襖の日」、「十月十日」を並び替えると「萌」の字に見える事で「萌の日」、「ポテト=PoTaTo」の「TaTo」が「1010」をイメージできる事で「ポテトサラダの日」となりました。
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