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2018年10月07日10:16

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大阪ダービー

久しぶりのJリーグ
盛り上がりを期待してヤンマー長居へ
なにせヴィッセルはこの2試合の失点が5点、4点の完封負けですから

結果は前半44分59秒のアデミウソンのループ1発でガンバ勝利
個人的にはこの所ニュースにならない遠藤の動き
なるほど話題にならない訳です
仕草や口で盛んに指示はしてましたが全く走れていない
キラーパスなど望むべきもない

気になったのは運営
ヴィジョンにリプレーが流れたのはソウザのシュートがクロスバーを叩いた場面だけ
もっと流せませんかね
開始早々ゴールが決まった、と思ったがオフサイド
周りの人も気付かない状態、流して欲しかったですね

また大阪メトロ、大勢が駅に向かったが入場規制も増発もなし
神戸はきちんと案内規制して臨時も出してるのに

画像3 バンクシー本人が会場で?
    遊び?
    売買されるのが嫌なら最初から売らなければいいのだし
    こういう仕掛けも含めての作品と落札者が満足するかどうか

(語る 人生の贈りもの)五木寛之:3 
        直感鋭い母「この戦争、負けるかも」

 子どもの頃から山のように本を読んできましたね。両親がたくさん本を持っていましたから。母の本棚にあったパール・バックの小説「大地」が特に好きでした。谷崎潤一郎の「源氏物語」の現代語訳もありましたし、父の持っていた講談本の「宮本武蔵」なんかも印象深い。
 住んでいた教員向けの住宅が校内にあり、玄関を出るとすぐ図書室だったこともあります。管理者の父には禁じられていましたが、こっそり鍵を開け、片っ端から本を読むような子どもでした。
 父は夜も寝ずに、勉強をしていました。教員としてステップをあがるための試験を突破するために。地方の師範学校を出たくらいではこのまま勤めていても……。そういう思いがあったのでしょう。
 その努力のかいあって、父はソウルの小学校から平壌(ピョンヤン)の師範学校へというふうに、一歩ずつ階段をあがっていきました。ですから、ぼくは小学校を何度も転校しています。
 それから終戦に至る数年間、父は活気ある日々を過ごしています。石原莞爾に共鳴する愛国者でした。
 学生時代から剣道の有段者で、当時の皇道哲学を信奉していました。ぼくには古事記の素読をさせたり、詩吟を教えたりしたものです。いまでも古事記の文章は暗記しています。
 《母も教員だったので、五木さんには割烹着(かっぽうぎ)姿で、縫い物をしているような昔風の母親像はないという。スーツを着てカバンを提げて出勤する、現代の働く女性に近いイメージだ》
 思えば、母はぼくを医者にしたかったようです。少年兵に、という父とは考えが違っていました。
 直感が鋭くて、太平洋戦争が始まり、海軍の英雄、山本五十六の死が伝えられたとき、この国は負けるんじゃないかしら、とつぶやき、神州不滅を信じてやまない父を激怒させました。
 ぼくは戦闘機に乗り、敵に特攻していくことを夢見る軍国少年になっていきます。(聞き手・木元健二)

11〜12歳、父とともに。次第に軍国少年となっていった=本人提供
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