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2018年10月05日11:37

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活字離れ=想像力の低下は短絡的

想像力低下の要因の一つではありますが、想像力低下の最大の弊害は、辞書、百科事典をひかなくなった事なのでは?
そもそも、想像力と言うのは才能や能力依存だったりするもので、読解力程度の一定水準以内の高低差は何が違うのか?という話なんだと思いますよ。
今の人は、知識の幅が極端に狭くなっていて、知識と知識の間を埋める情報が無いのが問題なのではないのでしょうかね?
読解力とは言いながらも、それ単体を読んでその文章の中だけで理解するわけではありませんよね。
その文章を軸に、持っている知識を動員して理解するわけですよ。
仮に、100文字の文章を理解するのに必要な情報を1万だとした場合、8000の情報を組み合わせて、残りの2000を埋め合わせるのが想像力だったりするんです。
ところが昨今、その動員すべき知識が足りなさ過ぎて、一つの文脈を理解する事が出来ない。或いは、稚拙な解釈しか出来ない人が増え、それを単に想像力が不足していると判断するから、見誤るのかと。
語彙力の低下にもつながる話ですが、辞書を引かなくなった事で、見出しに相当する語彙が圧倒的に不足しているんですよ。
辞書を引く事で、目的の言語に到達するまでに、必要のない言語や情報を目にします。
無意識かも知れませんけど、それを繰り返す事で、記憶の襞に何某かの物が残り、それが知識と知識を繋ぐキーワードになったりしていると感じています。
ところが昨今、ネット検索のおかげで、最短距離で必要とする情報にたどり着いてしまうため、余分な情報が入ってこない環境があります。
加えて、当然の事ながら興味のある情報にしかアクセスしないため、個人が持つ情報が狭く深い知識の集合体になってしまっているのではないのでしょうか。

時々いるのですが、興味の無い話のときは会話に一切参加せず、興味のある話題になったとたん、俺のターンとばかりに話し始める人。
確かに興味の有無で会話の内容に変化はあるものですが、ON/OFFがはっきりしすぎていて、大丈夫なの?と不安を感じたりします。
精神的な疾患を抱えている方?と思っていたのですが、そういう方が一人二人じゃなく、また、日常会話であれば何ら違和感なく会話が成立するんですよね。
結局何?と思ったら、興味のない話は、全く何も知らないという人が少なくない数いて、全く情報が無いから、何を言っているのかさっぱりわからず会話に参加のしようがないらしいんです。

無論本を読まない、雑誌を読まないと言うのも要因の一つだと思うのですが、本は自分の興味のあるジャンルしか、そもそも読まない人が多く、雑誌も興味のないコラムなどは飛ばして読んでいた人が少なくありませんでしたからね。
ただ、そういう人でも調べ物をする際には、不要な情報のアクセスゼロで必要な情報だけを得る事は出来ませんでしたから、知識は極端であっても、間をつなぐ情報は自然に身についていたのかと。

想像力とは何か。

そう言う話になって来ると思うのですが、インターネット普及以前の人は恐らく無意識に出来てしまっているので、単に高低の話なってしまうと思うのですが、持っている知識と知識をつなぎ合わせて新たな物を構築する作業の事だと思います。
ただその知識量が極端に少ないと、つなぎ合わせる事が出来なくなり、その状態が想像ウ力の欠如という表現に表されているのかと。

>>読み終わったばかりの文章の内容を、ちょっと切り口をかえて質問してみると、まったく答えられない。

これが、正にその状態なのではないのでしょうか。

知識の幅が狭すぎて、同一の事を別の状況に置き換えられない。

そう言う人が増えてきているので、昨今の我儘を我儘と自覚できない人や主張が横行しているのではないのでしょうか。
本を読めといった所で無意味だと思いますよ。
学校教育の場で、調べ物にネットを使うのをやめる方が先決なのでは?

多分根っこは同じだと思うのですが、先日TVで富士山の遭難者数をネットで検索する場面があり、中々答えが出せずにいじられるシーンがありました。
家内は、やらせだと笑っていましたが、私はそうは思えませんでした。
かなりの時間を要し、出てきた答えが、

山梨側は出ているのですが、総数はわかりません。

との事。
むしろ、そっちを探す方が手間がかかるのでは?と思った次第です。
ただ、一概にやらせと思えなかったのは、うちの会社の若いのも同じような答えを出してきがちなんですよね。挙句、見つかりませんと言う答えも少なくありません。

富士山の山梨側の遭難者数をがでる検索ワードから、彼らがどのような富士山の遭難者数を調べるのに使った検索ワードが想像できるのですが、よほどの馬鹿でもない限り、「山梨」というワードは使いません。
恐らく、遭難者を救助する所は何処?という所から入ったのでは?と思う次第です。

山岳救助 富士山

これで検索すると、一番最初に出て来るのは山梨県警で、恐らくそれを見たのかと。
ただ、これが出たのであれば、後は静岡側を調べれば、足せば答えが出るのですが、静岡県警のサイトは山岳救助で富士山という括りの情報が探し辛いので詰まってしまったのでは?

ひょっとすると、富士山が山梨と静岡にまたがっているのを知らなかったので、静岡というワードが出てこなかったのかも知れません。
ただ、

富士山 遭難事故 件数

と入力すると、「富士登山オフィシャルサイト」が出てきて、そこで山梨県警と静岡県警の情報と合計が一覧に整理されています。
正確を期するのであれば、山梨県警と、静岡県警の情報を確認すれば良いだけなのですが、このネタを扱っているサイトも同時に出てきたのですが、それを書いている人ですら、時間が掛かると言っています。
裏を取らなければ、数秒の話ですし、裏をとっても5分も掛からないのですが、今時の人は、この数秒なり5分程度を時間が掛かると言っているのでしょうか・・。

ITは若い世代というイメージがありますが、ネットを使った調べ物ですら、中高年者劣っているのではないですか?

想像力の欠如、想像に繋がる知識の圧倒的な不足。

これが一番の問題で、ただこの要因は単なる活字離れだけではなく、余分な知識を得る余地が無くなってしまった昨今の環境に起因しているのかと。
むしろ、活字離れが先なのではなく、

想像力が低下したから、活字離れに繋がっている

のではないのでしょうかね。


で、辿り着く先は?って・・・。

自分の興味のある知識しかなく、想像力が欠如していて、打たれ弱く精神的に脆弱。

洗脳されやすい人の特徴でしょ?
駒以外使い道のない人達ですよ。
想像力は、創造力でもあるわけで、それが無く、御しやすい人格だってことは、そう言う事ですよね。

だから、脊髄反射で人を叩くような輩が増えているのではないのでしょうかね。
誰かが叩いているから、勝ち馬に乗っかる気持ちで叩きに行く。
それがどういう状況で、その先どうなるのか?という事も考えもせずに。
LGBTの問題、夫婦別姓の問題、晩婚化・生涯未婚率の上昇、皆同じじゃないですか?

それを扱う事で、誰が得するの?

想像力が皆無だから、そういう事を考えようともしないんですよね。
ただ、学校のお勉強はできるのでしょうから、書いてある事をそのまま読む事は出来るわけですよ。
ただ、何が書かれているかを考えたり、その信ぴょう性について判断出来る程の幅広い知識が無いので、鵜呑みにしてしまう。

無意識で、誰かの操り人形を演じてしまう人生を送るんでしょうね。





■「文字を読むのが面倒くさい」で、辿りつく先とは?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=5318290

「読書の秋」も、もはや死語? 日本人の「活字離れ」が叫ばれて久しく、代わりに写真や動画サービスの全盛期である今日この頃。しかし、このまま文字を読まなくなった結果、人間にとって弊害はないのだろうか? 国語教師講師に聞いてみた。

■想像力のない子どもが増えている!?

お話を伺ったのは、塾の経営および教師講師をする傍ら、歌人・小説家としても活動する小田原漂情先生。

「活字で提示された文章を読解し、その人自身の思考を展開することは、きわめて能動的な行動です。一方、写真や動画など電子媒体で提示される対象は、動きのあるものであればあるほど、設定や展開に対して受動的にならざるを得ないといえます。したがって、活字離れにより、思考力や判断力、読解力が低下する可能性は、多分にあると考えます」(小田原先生)

特に顕著なのは、発達段階にある子どもたちだ。

「国語の授業で、文章の内容をイメージできない子どもが増えています。読み終わったばかりの文章の内容を、ちょっと切り口をかえて質問してみると、まったく答えられない。そんな子が多いのです。活字離れがこうした傾向をさらに推し進めることは、疑いないと思われます。例えばカーナビを使えば、地図を読み解くことなく目的地に案内してもらえます。塾の子どもたちもいまやほとんどがスマートフォンを持っていますが、子どもたちの日常が、便利なカーナビのように何から何までお膳立てされていて、『自分から積極的にものごとの意味をくみとっていく』ことからかけ離れているのであろうことは、容易に想像できます。このことは、2000年代と2010年代、つまりひと時代ちがう子どもたちの様子をつぶさに見てきて、私が得た推論です」(小田原先生)
 
活字離れは、「能動的に読みとり、意味を見出すこと」から離れ、受動的な人間性を大量生産していくのではないか、と小田原先生は指摘する。

■思考力や判断力、読解力を育てる「国語力」

「文字を読む」という点だけなら、電子書籍でも問題ないように感じる。

「電子書籍自体に大きなマイナスがあるとは考えません。ただ、私個人としては個人的には、『紙の本』のページが持つ『余白』は、作品の息づかいを保証している面が非常に大きいと感じます。古い世代の言い分に聞こえるかもしれませんが、私が小説など文学に位置するものを書くときも、まず原稿用紙に書き起こし、一定段階からワードと併用します。そうでないと、文章の息づかいに肉声がこもらないように感じるためです」(小田原先生)

子どもたちにも、紙の本を読み、紙の上に書き起こすことを勧めているという小田原先生。では、子どもたちにとって、それは将来どんな風に役に立つのだろうか。

「中学、高校、大学と進学し、社会に出て一人の大人として活躍する過程で、多くのことを『書く』、『語る』必要にせまられます。例えば、クラスでの発表や入試の面接、レポートの作成や卒業論文、面接などです。面接で自分のことを語るとき、ただ饒舌にしゃべればいいのではありません。自分の経験や考えを、取捨選択し、練り上げて、必要かつ強く相手に伝えたいことだけをきちんと話すことが求められます。そして、書くこと、語ることのいずれにも、『国語の力』が強く求められます。『国語の力』は、一生の力となるものです。さまざまな場面で必要になりますし、生きることそのものと言っても言い過ぎではないほどに、人生の多くの局面で人のあり方を左右するものだと言えます」(小田原先生)

文章をきちんと読んで、自分の考えを組み立て、それを自分の文章として表現する習慣を続けることで、自ら思考し、判断する力を育むことができるのだという。

大人も子どもも、この秋は面倒くさがらずに、活字に親しんでみてはいかがだろうか?

●専門家プロフィール:小田原 漂情
1963年生まれ。2004年から文京区にて、本質的な国語教育を行う「言問学舎」を経営。また歌人、小説家として、歌集、小説、エッセイ集など、著書多数。短歌を中心とする文学サイト「美し言の葉」を石井綾乃と共同運営、『桜草短歌会』主宰。

(酒井理恵)

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