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2018年10月04日00:06

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10月4日の日記

今日の出来事:663年−白村江の戦い、1180年−源平合戦:結城浜の戦い、1506年−般若野の戦い、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が大垣に到着、1808年−津軽藩士殉難事件、1808年−フェートン号事件、1969年−「8時だョ!全員集合」が放送開始、1982年−「森田一義アワー 笑っていいとも!」が放送開始

今日は、白村江の戦いです。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が鼎立していましたが、新羅は二国に圧迫されていました。倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていました。しかし、任那は豪族による百済への割譲と新羅の進出によって弱体化し、新羅に滅ぼされました。一方、隋は中国大陸を統一し、文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(麗隋戦争)を行いましたが失敗しました。これが原因となって隋は弱体化し、煬帝が殺害されて滅びました。唐は国内を統一した後、二代太宗・高宗の時に高句麗を3度にわたって攻めました(唐の高句麗出兵)が、隋と同様に攻略に失敗しました。「百済・高句麗」(麗済同盟)と「新羅・唐」(羅唐同盟)の対立となり、どちらに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となりました。新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされました。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置きましたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きました。百済滅亡後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子・豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請しました。百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠でした。中大兄皇子はこれを承諾し、斉明天皇は九州へ出兵しましたが、邦の津にて急死しました。斉明天皇崩御にあたって皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援しました。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸しました。倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦する事でした。豊璋王は鬼室福信と対立し、これを斬る事件を起こしましたが倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐する事に成功しました。百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌が率いる水軍7000名を派遣しました。唐・新羅連合軍は水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅する事に決めました。陸上部隊は、唐の将・孫仁師、劉仁原及び新羅王・金法敏(文武王)が指揮しました。劉仁軌、杜爽及び元百済太子・扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃しました。倭国・百済連合軍は、「鬼室福信事件」の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行いました。倭国軍は三軍編成をとって4度攻撃し、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、唐・新羅水軍に大敗しました。同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊しました。白村江に集結した1000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上しました。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留された後に帰国を許されました。白村江で大敗北した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとの事で帰国しました。天智天皇(中大兄皇子)は白村江の敗戦の後、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて、北部九州の大宰府の水城や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築きました。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備しました。さらに、天智天皇は都を難波から内陸の「近江京」へ移して、防衛網を完成させました。

次に、源平合戦:結城浜の戦いです。千葉氏の祖・千葉常重は、平常晴から相馬郡を譲られて相馬郡司となり、伊勢神宮に寄進し、相馬御厨が成立しました。しかし、官物未進を理由に下総守・藤原親通に召し上げられ、更に源義朝の介入があり、藤原親通の子・親盛から入手した新券を理由に佐竹義宗に奪われるなど、従来からの下総在地豪族だった千葉氏と、為光流藤原氏や佐竹氏との相馬御厨や橘荘などの荘園を巡る軋轢が生れていました。そして、藤原親盛の子・親政は、千田荘の領家として下総匝瑳郡に進出し、両総常陸の武士団を率いていました。藤原親政は、千田荘の本家である皇嘉門院の判官代でもあり、本家は勿論、領家も中央に在るのが通例にも拘らず、皇嘉門院とそれに連なる摂関家の威光を背景に下総に進出しました。また、藤原親政は時の平氏政権を築いた伊勢平氏とは、平忠盛の婿であり、平資盛の伯父という二重の姻戚関係にありました。このため、下総における千葉氏の立場は、危機的な状況に追い込まれていました。「以仁王の挙兵」に続き、源頼朝は伊豆国で挙兵しました。「石橋山の戦い」で敗北を喫しましたが、真鶴から出港して安房国の猟島に到着しました。源頼朝は房総半島の在地豪族達に協力を要請した上で、上総国から下総国に向かいました。そして、千葉常胤の孫・成胤が平家の総帥・平清盛の姉婿・千田親政を生虜にするという快挙を成し遂げると、様子見していた上総広常など坂東の武士団がこぞって源頼朝の軍に合流したため、関東における源氏の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になりました。

その次に、般若野の戦いです。室町幕府の管領であった細川政元は、自己の権力強化のために有力な守護大名の権力削減を図りました。一方、これに対して畠山氏・朝倉氏などの有力な守護大名達は、激しく抵抗しました。加賀に門徒達による国家を成立させた本願寺第9世法主・実如は、加賀の北隣の畠山氏と南隣の朝倉氏の圧迫を受けていました。そこで、細川政元と本願寺実如は連携してこれにあたる事になりました。1506年、実如は北陸の門徒管理にあたっていた兄・蓮綱、弟・蓮悟に対して朝倉領越前と畠山領能登・越中両国への進出を命じました。南の朝倉攻撃は「九頭竜川の戦い」で名将・朝倉教景(宗滴)の前に挫折しました。しかし、北の畠山攻めは能登守護であった畠山義元が弟・慶致に守護職を奪われたために内紛状態となっていました。越中は河内の畠山宗家の分国で守護代の遊佐氏・神保氏・椎名氏が地域ごとに分割して支配しており、対応が取れなかったために一揆の進撃が続いていました。その後、能登では家臣の圧力に押された畠山慶致が兄・義元と和解して共同で一揆を撃退したため、越中に一揆が雪崩れ込む事になりました。この事態に衝撃を受けた越中守護・畠山尚順は、畿内での細川政元との戦いに手を取られていたため、代わりに隣国である越後の守護・上杉房能に救援の要請を行いました。当時の越後国内では、守護・上杉房能は無力で実権は守護代・長尾能景に奪われていました。上杉房能と長尾能景は一揆が越後に広まる事を恐れて、救援に応じる事としました。越後を出た長尾軍は、本願寺門徒の支配下にあった越中砺波郡を攻めました。ここが落ちれば、一向一揆の中心である加賀との国境に達し、そのまま朝倉氏と連合して加賀制圧も可能でした。10月4日、越中砺波郡般若野で長尾軍と一向一揆が衝突しました。一揆側と通じた神保慶宗が戦線を離脱したため長尾勢は孤立し、長尾能景は討ち取られて長尾軍は壊滅しました。長尾能景の子・為景はこれを神保慶宗の裏切りであるとして仇敵視する事になります。

その次の次に、奥の細道:松尾芭蕉が大垣に到着です。芭蕉は、「奥の細道」の結びの地である大垣に到着しました。露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて、美濃の国へと同行しました。馬の背に乗せられて大垣の庄に入ると、河合曾良が伊勢よりやって来てくれました。越人も馬を走らせてきて、如行の家に集まっていました。親しい人々が日夜見舞ってくれて、まるで生き返った人に再会するかのように、喜んだり、労わってくれました。芭蕉は、旅の疲れがまだ残っていましたが、最後の目的地「伊勢神宮」に参るため、再び舟に乗りました。最後に結びの句を詠みました。「蛤の ふたみに別 行秋ぞ」(蛤の離れがたいふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども、秋もまた去ろうとしている。)

そのまた次に、津軽藩士殉難事件です。津軽藩士殉難事件は、「文化露寇」の中で北海道知床半島西岸の斜里郡で発生した大量遭難事件です。日本との通商を求めるロシアは度々、接触を図ってきました。1792年にはアダム・ラクスマンが伊勢国出身の日本人漂流民・大黒屋光太夫を伴って根室に来航、1804年にはニコライ・レザノフが長崎に来航してロシア皇帝の親書を携えて交渉を図りました。しかし、鎖国を祖法とする日本側に拒絶されていました。日本側の煮え切らない態度に接したレザノフは、「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」との意見を皇帝に奏上しました。一方、彼の部下・ニコライ・フヴォストフは独断で水兵を率い、1806年と1807年の数回に渡って択捉島や利尻島に上陸し、日本側の会所や番屋を焼き払って食料や武器などを略奪する暴挙を繰り返しました。これが「文化露寇」と呼ばれています。事件を受けた幕府は北方警備の重要性を悟り、松前藩を陸奥国・伊達郡梁川に転封して蝦夷地を直轄領し、会津藩、秋田藩、南部藩など東北地方の各藩に北海道の沿岸警備を命じました。1807年、津軽藩は北方警備の幕命を受け、北海道北端の宗谷へと出立しました。当時、人口が200人だった宗谷に100人の津軽藩士達が駐屯する事になったため、長屋などを急遽建設して樺太を望む宗谷海峡の警備に当たりました。しかし、斜里の警備の命が下され、宗谷の人員100人から、30人が最初に出立してオホーツク海沿岸を陸路で南下した後、9月1日に現地に到着しました。周辺の山林からトドマツを伐採して、30坪ほどの陣屋3棟と板倉などの付属施設を建設しました。心配されたロシア船来航の兆しは無く、一同は月の3、13、23日に射撃訓練などをしました。しかし、蝦夷地の本格的な寒さが忍び寄り、9月29日には初雪が降りました。11月には最初の病人が発生する中、11月25日に松前からの早飛脚が医学館製の薬「加味平胃散」と酒などを差し入れました。米や味噌など食料の備蓄は豊富でしたが、12月12日以降は「北国」の津軽でも経験した事の無いような寒さに苛まれました。陣屋は警備を最優先して海を臨む立地に建設されていたため、北からの季節風をまともに浴び、そこで暮らす藩士達は綿入れを2枚重ねにして何とか耐え忍ぶ状況でした。海は流氷に閉ざされていました。新鮮な魚を得る事も不可能で、保存食のみで生鮮な食材の無い食生活はビタミンを欠き、脚気による水腫を患う者が続出しました。12月23日には最初の病人だった富蔵が死亡し、以降は24日、27日、29日、1月2日と数日に1人の割合で病死者が続出しました。1月5日には4人が死亡しました。以降も病死者は絶えず、症状の軽い者は身分の別なく雑事や病人の看病に奔走しました。28から31日までに5人が死亡、2月中に22人が死亡しました。以降も死者は絶えず、3月28日には計6人が死亡しました。宗谷での養生願いが聞き届けられて斜里を離れる者もいましたが、道中の網走や常呂で息絶えました。4月27日になって海を閉ざしていた流氷がようやく去り、生存者達は船便が通う状況になった事で希望を繋ぎました。本格的な春の訪れと共に外部から早飛脚などが訪れ、生存者達は次々と出立を始めました。8月4日に死亡した足軽目付・桜庭又吉が最後の死者となりました。8月15日、斜里陣屋の沖に450石積みの交代船「千歳丸」が現れました。陣屋に残っていた者は米や武器類をまとめて撤収の仕度し、死者72人の氏名をすべて記したヒノキ製の墓標を建立しました。8月17日、残りの17名は「千歳丸」に乗り込み、帰路に着きました。斜里を出帆して北海道オホーツク海岸を北上し、宗谷岬を廻って8月23日に利尻島に上陸しました。ここで生存者達は、干物ではない新鮮な魚を7ヶ月振りで口にしました。9日間滞在した後に出港し、北海道の日本海沿岸を南下しましたが、船は積丹半島の神威岬沖で悪風に阻まれて舵を損傷しました。やむなく、忍路まで引き返して上陸しました。以降は海路での旅をあきらめ、陸路を向かう事にしました。高島のアイヌとの交易施設で数日を過ごし、9月6日に出立して石狩川を河口から丸木舟で遡り、さらに千歳川を遡って千歳の会所に宿泊しました。石狩低地の分水嶺を越えて美々川を下り、勇払の会所に宿泊しました。アイヌの馬子が操る馬で旅を続け、9月10日に白老、12日に室蘭、16日に長万部、そして9月20日に函館に到着しました。24日に松前に到着、25日には損傷した「千歳丸」の修理が終わり、松前に入津したとの知らせを受けました。29日の朝、一行は「千歳丸」に乗り込んで津軽海峡を越え、昼過ぎには三厩村に上陸しました。陸路で数日の旅を続けた後、10月4日に待望の弘前城下に辿り着きました。斜里での大量死は藩の「恥部」として厳重な緘口令が布かれ、藩の公式記録にも載せられませんでした。しかし、生存者の1人である藩士・斎藤勝利の残した「松前詰合日記」が1954年に発見され、はじめて藩士達の悲劇が明らかになりました。1973年には「津軽藩士殉難慰霊の碑」が建立され、慰霊祭が毎年行われています。1983年には斜里町と弘前市は友好都市の提携を結び、以降の夏祭りでは「弘前ねぷた」が斜里の繁華街を練り歩いています。

最後にフェートン号事件です。欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(後のオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていました。イギリスも江戸時代初期には長崎に商館を設置して対日貿易を行っていましたが、オランダとの営業競争に敗れ、経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館しました。その後、再開を試みましたが、江戸幕府に拒絶され続けていました。オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲートフェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港しました。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名は慣例に従い、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拿捕され、船に連行されました。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めてボートで長崎港内の捜索を行い、人質の1人ホウゼンルマンを派遣して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求しました。長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する佐賀藩・福岡藩の両藩にフェートンの焼き討ち、もしくは抑留を命じ、大村藩などにも派兵を促しました。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、戦闘回避を勧めましたが、ここに来て長崎警衛当番の佐賀藩が太平に慣れて守備兵をわずか150名程度に減らしていた事が判明しました。イギリス船がオランダ人1名を釈放して、欠乏食料の供給を求め、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきました。襲撃兵力のない長崎奉行はやむなく要求を受け入れ、食料や飲料水を供給し、オランダ商館も豚と牛を送りました。このためイギリス船は残りのオランダ人も釈放し、港外に去りました。侵入船の要求に応じざるを得なかった松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹しました。勝手に兵力を減らしていたとして長崎番所の番頭の千葉三郎右衛門胤明、蒲原次右衛門孝古が責任を取って切腹しました。さらに幕府は、佐賀藩が長崎警備の任を怠っていたとして、藩主・鍋島斉直に100日の閉門を命じました。「フェートン号事件」の後、ズーフや長崎奉行・曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化されました。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に「異国船打払令」を発令する事になりました。この屈辱を味わった佐賀藩は次代・鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つ事になりました。一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置きました。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ズーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置されました。ズーフたちは本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていく事となります。

今日の誕生日:ジャン=フランソワ・ミレー、ラザフォード・ヘイズ(第19代アメリカ合衆国大統領)、新村出、福井謙一、北島三郎、辻仁成(元ECHOES)、クリス・ロウ(ペット・ショップ・ボーイズ)、高橋和希、金谷ヒデユキ、桶田敬太郎(元フォークダンスDE成子坂)、千聖(PENICILLIN)、藤田俊哉、吉原由香里(旧姓梅沢)、上田竜也(KAT−TUN)、前田愛、リェーナ・カーチナ(t.A.T.u.)、八田亜矢子、村川絵梨(元BOYSTYLE)、ほのかりん、龍星座の紫龍、ブラックアンドロメダ、Siri

今日の記念日:世界動物の日、都市景観の日、里親デー、証券投資の日、古書の日、イワシの日、陶器の日、天使の日、森永・天使の日、徒歩の日、ジューCの日、104の日、女子会の日、シャツの日、お取り寄せの日、日本刀の日、糖質ゼロの日

今日の「今日訓」:本日は、動物・環境保護の守護聖人「アッシジのフランチェスコ」の聖名祝日で「世界動物の日」、1948年、「里親制度の運営についての厚生事務次官通告」が施行された事で「里親デー」、1877年に横浜で国産のシャツが製造されるようになった事で「シャツの日」、「と(10)し(4)び」(都市美)の語呂合わせで「都市景観の日」、「とう(10)し(4)」(投資)の語呂合わせで「証券投資の日」、「古」の字を分解して「十」「口」とし、これを組合わせた「田」を4冊の本に見立てて「古書の日」、「い(1)わ(0)し(4)」の語呂合わせで、「イワシの日」、陶器の古称「陶瓷(とうし)」から「とう(10)し(4)」の語呂合わせで「陶器の日」、「てん(10)し(4)」の語呂合わせで「天使の日」、「森永・天使の日」、10と4で「トウフォー」と読む語呂合わせから「徒歩の日」、「ジュー(10)C(4)」の語呂合わせで「ジューCの日」、電話番号案内サービスのダイヤルナンバー「104」から「104の日」、「じょ(10)し(4)」の語呂合わせで「女子会の日」、「おと(10)りよ(4)せ」の語呂合わせで「お取り寄せの日」、「刀(10)匠(4)」の語呂合わせで「日本刀の日」、「糖(10)質(4)」の語呂合わせで「糖質ゼロの日」となりました。
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