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2018年10月03日00:12

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10月3日の日記

今日の出来事:紀元前52年−ガリア戦争:アレシアの戦い、1863年−朝陽丸事件、1868年−戊辰戦争:二本松奪還戦、1868年−秋田戊辰戦争:下浜長浜の戦い、1964年−日本武道館が開館、1990年−東西ドイツ統一

今日は、ガリア戦争:アレシアの戦いです。紀元前53年の戦いでシーザーに敗北を喫して、指導者であったアッコを処刑されたカルヌテス族は、紀元前52年にケナブム(現:オルレアン)を攻撃し、ローマ人を虐殺して財産を奪い取りました。ケナブヌでの事件がガリア全土に知れ渡ると、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスは族内の親ローマ派の反対を押し切って対ローマへ乗り出す事を表明しました。アルウェルニ族以外にセノネス族・アウレルキ族・ピクトネス族らが共同でウェルキンゲトリクスにガリア連合軍の最高指揮権を委ねる事を決定しました。ウェルキンゲトリクスは、過去のローマ軍の戦い方を研究し、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開しました。このガリア総決起に対しシーザーは、アンビオリクスに敗れた紀元前54年の過ち(アドゥアトゥカの戦い)を繰り返さぬよう、冬営中の10個軍団を素早く結集させました。ローマ軍はまず、ケナブムを奪取し、次いでアウァリクムを制圧、シーザーは見せしめのために住民と守備隊の40000人を皆殺しにしました(アウァリクム包囲戦)。シーザーはティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を与えて北部での作戦を委ね、自身は6個軍団を率いてアルウェルニ族の領地である南部を攻撃しました。しかし、ウェルキンゲトリクスは粘り強く抵抗し、さらに「ゲルゴウィアの戦い」でシーザーを破りました。撤退の途中でシーザーは、精強なガリア人騎兵に対抗するため、ゲルマン人騎兵を雇い入れました。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾し、ディジョン近辺で攻撃を仕掛けました。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退しました。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込みました。アレシアは2本の川に挟まれた丘の上に作られた要害の都市でした。強襲をかけても損害を出すだけと見たシーザーは、包囲線を築いて敵の消耗を待つ作戦を選択しました。ウェルキンゲトリクスのガリア軍80000人とアレシアの住民が包囲下にあり、兵糧の消耗が激しいと考えたのでした。歩兵250000、騎兵8000の解囲軍が到着し、アレシアの南西に陣地を築きました。翌日、解囲軍は包囲線に対して強襲を仕掛け、これに合わせてウェルキンゲトリクスも出陣しました。ローマ軍の防備は堅く、ガリア軍は日没まで攻撃を仕掛けたものの、包囲線に取り付く事すら出来ず、多大な損害を出して撤収しました。10月2日、ウェルカッシウェラウヌスは60000の軍を率いて北西から攻撃を仕掛けました。同時に残りの解囲軍は南西から総攻撃を仕掛け、ローマ軍を引き付けました。さらに包囲下のウェルキンゲトリクスも出陣し、南西と北西の二手に分かれて突破を図りました。シーザーはデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスに騎兵6個大隊、ガイウス・ファビウスに騎兵7個大隊を委ねて先に出撃させた後、自ら最後の予備を率いて出撃しました。緋色のマントを身に着けた総司令官の姿が現れたのを見ると、これを討ち取るべくウェルカッシウェラウヌスは矛先を転じました。こうしてシーザーが敵を引き付けている間に、先行させていたブルトゥス、ファビウスの騎兵がガリア軍の後方を突き、さらにラビエヌスの軍も反撃に転じました。パニックに陥ったガリア軍は間もなく壊滅し、ウェルカッシウェラウヌスは捕虜となりました。友軍の壊滅を目にした南西の解囲軍は意気阻喪して撤収し、ウェルキンゲトリクスもアレシアに引き上げました。こうして最後の解囲作戦が失敗しました。ウェルキンゲトリクスは全ての将兵を集め宣言しました。「この戦いは己の栄誉のためではなく、全ガリア人を解放するための戦いだった。運命が私に敗北を与えたのならば、それに従うことにしよう。私を殺すか、あるいは生きたままローマ軍へ引き渡すか、諸君らが選択したまえ」 ガリア人はローマにウェルキンゲトリクスを引き渡す事を選びました。ウェルキンゲトリクスは族長たちを率いてローマ軍の包囲線の前まで進み出ました。族長たちの武器を集めたウェルキンゲトリクスは、自らの武器とともにローマ軍に差し出しました。ガリアの王はローマの前に屈しました。ガリア軍と生き残ったアレシアの市民は全て捕虜となりました。アルウェルニ族とハエドゥイ族はローマの寛大さを見せつけるため解放され、一部はシーザーの軍団に吸収されました。その他のガリア人は、兵士1人につき1人ずつ奴隷として与えられました。

次に朝陽丸事件です。1863年、長州藩は攘夷を実行し、「下関戦争」が始まりました。幕府は、外国船砲撃の詰責書を長州藩の北条瀬兵衛に交付しました。長州藩江戸藩邸の波多野藤兵衛はこれを持参して、江戸から山口に帰りました。詰責書の内容は、「外国船砲撃については国の方針が定まらないうちに妄動しては国辱であるので、異船にみだりに発砲しないように」というものでした。8月29日、長州藩が小倉藩の領地に砲台を築くなどして不法侵入をしているとして、幕府は閣老の書をもって詰問使・中根一之允等を軍艦「朝陽丸」で馬関に派遣しました。9月5日、「朝陽丸」が豊前沖に到着しました。幕府は同船させていた小倉藩士・河野四郎、大八木三郎左衛門に田ノ浦付近の状況を偵察させました。翌日馬関に移動した「朝陽丸」の幕使を波多野金吾(後の広沢真臣)、宮城彦輔、入江九一、赤根武人が応接しました。この時、小倉藩士がいる事を察知した滝弥太郎、吉田稔麿ら奇兵隊士50〜60人が、「朝陽丸」に抜刀して乗り込みました。長州藩士達は幕府が攘夷を決行せずに、咎める事に憤って殺気立っていました。幕府側はこれを鎮める為に、閣老の書を将軍からの親書だと偽りました。小倉藩士・河野四郎、大八木三郎左衛門は、累が幕府に及ぶ事を恐れて艦艇で自刃し、遺体は海に沈められました。9月11日、中根一之允の小人目付・鈴木八五郎等が小郡の旅館に来て、閣老の書を長州藩・刺賀佐兵衛に渡しました。内容は、「異船にみだりに発砲した事と、小倉藩領に侵入している事について、どういうつもりなのか申し立ててみよ」というものでした。9月16日、国重徳次郎が中根一之允の館を訪問し、閣老の書に対する答弁書を渡しました。内容は、「攘夷は朝命によって実行したもので、小倉藩侵入の件は小倉藩の処置についてよくない点があり心配だった為で、ご了察下さい」というものでした。9月21日、奇兵隊士達は「朝陽丸」を「下関戦争」で失った軍艦の代わりに借りる事を強要して抑留しました。「朝陽丸」は拿捕された形となって「長用丸」と改められました。そして、9月25日に奇兵隊士達は小郡の旅宿「三原屋」に乗り込み、鈴木八五郎と中根一之允の従者2人を斬殺しました。鈴木八五郎は中根一之允と間違われて、その首は斬奸状と共に路傍に晒されました。中根一之允は、厠にいた事で危うい所で難を逃れました。直ちに江戸に戻る事にし、長州藩の手配で小郡の丸尾崎から船に乗り込んで帰途に着こうとしました。10月3日、丸尾崎で東帰の船上にあった中根一之允が刺客に襲われて殺害されました。享年27でした。遺体は海中に投じられました。長らく墓碑も無く忘れ去られていましたが、有志によって50年祭が行われる事となり、毛利家が費用を出した上で墓碑が建てられました。この幕吏を殺害して軍艦も奪ってしまう「朝陽丸事件」ですが、この時に京都で「八・一八政変」が起き、朝廷の過激尊攘派公卿と長州藩士らが追放されてしまいました。その後の「池田屋事件」、「禁門の変」と続く時勢に流されて埋もれる事になります。

その次に、会津戊辰戦争:二本松奪還戦です。「二本松攻防戦」で敗れた二本松兵は、三つに分かれました。福島に向かった一隊、石筵に向かった一隊、庭坂に向かった一隊です。このうち福島に向かった大谷鳴海が率いる一隊と、「二本松攻防戦」に間に合わなかった丹羽丹波の部隊が、母成峠の大鳥圭介が率いる伝習隊と挟撃し、二本松の奪還を図ろうとしました。しかし、福島を出発した攻撃隊は新政府軍の待ち伏せを受けて四散しました。「伝習隊」は本宮へ向かう途中、山ノ入村で新政府軍と遭遇して激戦となり双方、軍を引きました。こうして「二本松奪還戦」は失敗に終わりました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:下浜長浜の戦いです。北上した海道口軍の庄内藩三番大隊は、長浜に迫りました。しかし、新政府軍は増援部隊を送り、さらに薩摩の軍艦「春日丸」が海から砲撃して庄内軍を撃退しました。連戦連勝だった庄内藩にとってはじめての敗戦となりました。陸上の戦いを援護して軍艦が大砲を撃ったのは、日本史の中でこれが最初です。

そのまた次に、日本武道館が開館です。日本武道館は、東京都千代田区北の丸公園にあります。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担う事を設立趣旨としています。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用されています。元々、太田道灌が江戸城を築城した際に、関東の守護神であった築土神社(旧・田安明神)が遷座したところです。後に、徳川家康が入府した際に関東代官・内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれていました。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、江戸時代中期に「徳川御三卿」の田安徳川家が屋敷を構えましたが、「明治維新」後に取り壊されて近衛師団の兵営地となりました。1961年6月、柔道が「1964年東京オリンピック」の正式種目に決定すると、柔道愛好者の国会議員は「国会議員柔道連盟」を結成しました。日本テレビの野外スタジオで開かれた発足祝賀会の席上で、会長に就任した衆議院議員・正力松太郎は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明しました。6月30日、「武道会館建設議員連盟」(会長・正力松太郎、副会長・水田三喜男、松前重義、佐藤洋之助、赤城宗徳)を結成しました。この構想は多数の議員の賛同を得て(衆議院議長・清瀬一郎、参議院議長・松野鶴平、内閣総理大臣・池田勇人、日本社会党委員長・河上丈太郎、民社党委員長・西尾末広、日本共産党議長・野坂参三をはじめとする超党派の議員)525名の署名が集まりました。1962年1月31日、文部大臣の認可を得て「財団法人日本武道館」(会長・正力松太郎、副会長・木村篤太郎、松前重義、理事長・赤城宗徳)が発足しました。建設地は二転三転した後に北の丸に決定し、1964年9月15日に「日本武道館」が落成しました。10月3日、昭和天皇・香淳皇后を迎えて開館式を行いました。設計は山田守、施工は竹中工務店、総工費は約20億円でした。法隆寺夢殿をモデルにした八角形の意匠で、大屋根の稜線は富士山をイメージしています。「1964年東京オリンピック」の柔道競技会場となりました。その後、日本の武道(柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた・銃剣道・古武道)の稽古場、競技場として使用されています。また、ダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会に使われる他、民放各局が主催・放送していた年末の賞取りレースと称される音楽祭、コンサートや格闘技(プロボクシング、プロレスリング、総合格闘技)の興行会場、大学や企業などの大規模な入学式・卒業式・入社式の会場としても幅広く使用されています。設立された頃は「日本武道の聖地」的な意味合いが現在以上に強かったため、1966年にビートルズのコンサートが行われた際には、細川隆元を始め「日本の武道文化を冒涜する」などとして異を唱える者が多くいました。現在では、コンサートやライブなどの各種音楽イベントでの使用が「日本武道館」の使用目的と収益の大きな柱の1つになっており、ミュージシャンにとって「日本武道館」はコンサート会場として極めて重要な位置に置かれています。

最後に、東西ドイツ統一です。ドイツの統一はベルリンの壁が崩壊からはじまりました。
1989年11月9日:ベルリンの壁が崩壊
1990年3月18日:東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利
5月5日:東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催
5月18日:西ドイツと通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約を調印
7月1日:通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約が発効し、東ドイツに西ドイツの通貨・ドイツマルクが導入
7月17日:6ヶ国外相会議で、統一ドイツの北大西洋条約機構(NATO)への加入を確認
7月23日:東ドイツの県が廃止され州が復活
8月23日:人民議会で東ドイツ5州の西ドイツ加盟が決議
8月31日:ドイツ統一条約が調印
9月12日:ドイツに関する最終規定条約が調印
10月3日:西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの州が西ドイツに加入
こうして東西ドイツが45年ぶりに統一されました。

今日の誕生日:嵯峨天皇(第52代天皇)、タウンゼント・ハリス、浜村美智子、武田広、宮川大助(宮川大助・花子)、白竜、スティーブ・フォックス(ゴダイゴ)、山口いづみ、大沢誉志幸、星野知子、石川優子、佐々木誠、石田ゆり子、tetsuya(L’Arc〜en〜Ciel)、真木蔵人、ケンタロウ、アレックス・ラミレス、石嶺聡子、蛯原友里、蛯原英里、八反安未果、SHOKICHI(EXILE、EXILE THE SECOND)、高城亜樹(元AKB48、元フレンチ・キス、元JKT48)、橋本愛奈(チャオ ベッラ チンクエッティ)、高橋朱里(AKB48)、さくら友蔵、アンパンマン、ばいきんまん

今日の記念日:ドイツ統一の日、登山の日・山の日、土佐の日、洗浄の日、センサの日、アンパンマンの日

今日の「今日訓」:本日は、1990年10月3日に、東西ドイツが45年ぶりに統一された事を記念して「ドイツ統一の日」、1988年にテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」が放送開始された事で「アンパンマンの日」、「10(と)3(ざん)」の語呂合わせで「登山の日・山の日」、「10(と)3(さ)」の語呂合わせで「土佐の日」、「千(セン)は10の3乗(ジョウ)」の語呂合わせで「洗浄の日」、「1003(センサ)」の語呂合わせで「センサの日」となりました。
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