「誰の目に向かって生きるのか?」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/9/26(水)【1253】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19202 (写真入り記事)
人は、誰かから認められ、愛され、喜ばれたいと願いながら生きているのではないでしょうか?
それが本能だからです。
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:45〜47)
「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21)
この聖句で書かれている「主人」とは、神様のことです。
私たちは、神の目に向かって生きるべきなのです。
神の目に向かって生きていれば、すべてがうまくいくようにできているのです。
イエス様の弟子のペテロは、「来なさい」と言われたイエス様を見ていた時には、ガリラヤ湖の水の上を歩きました。しかし、風や波を見たら、途端に沈んでしまいました。彼は、その瞬間イエス様に助けを求めると、イエス様が手を伸ばして助けてくれました。
「イエスは『来なさい。』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』(マタイ14:29〜31)
しかし、神を信じているクリスチャンでさえ、神様が目に見えないので、目に見える人間の目に向かって生きてしまうことがないでしょうか?
人の目を意識し、人の目を気にすると、途端に平安を失い、表面的な生き方をし、ズルくなり、信念を失い、正しい生き方ができなくなり、沈んでしまいます。
その時、「イエス様助けて下さい」と祈って下さい。
山口県で行方不明の2歳児を発見し、時の人として注目を集めている「スーパーボランティアの尾畠春夫さん」は、さながら、自分の信念に忠実に生きているように思います。
「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」を座右の銘として、飲食を含め、被災地に負担をかけないボランティアを心がけているそうです。
尾畠春夫さんの生き方が称えられて、「このように生きるべきだ」と言われたら、少し違う気がします。
尾畠さんは、自分の信念に恥じないように、信念に忠実に生きた結果の生き方なのですから。
人の目を意識すると、簡単に自分の信念を曲げてしまって、人から評価され、人から喜ばれ、人から良く思われる生き方をしてしまいやすいものです。
神の目を意識し、この方との関係の中で、自分に与えられた使命を果たし続けていきたいものです。
そう生きられたら本当に楽です。
その結果として、人からどう評価されるかは神様にゆだねましょう。
大切なことは、人からどう評価されるかを意識して信念を曲げないことです。
そして、神様から認められ、喜ばれる生き方に徹することです。
今日も、神の目のまなざしを意識し、神に向かって生きていきたいですね。
ステキな時間をお過ごし下さい。
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