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2018年09月08日06:56

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◆世界レベルで「大学が崩壊している」根本原因(東洋経済オンライン)

●研究機関は本来、天才を「飼っておく」場所だ

大学の成果をランキング付けして「見える化」し、数値目標を与えて達成させる新自由主義的手法。今日の大学改革に影響を与えているこうしたやり方は近代合理主義の極致とも言える。

だが同時に、近代の大学の理念は「大学は人間の理性に基づく真理の探究の場」であり、その象徴とも言えるリベラル・アーツ(人文学的な教養教育)が「改革」によって大学教育から消滅しかねない事態となっている。両者ともに「近代」を背景としているにもかかわらず、なぜこうしたことが起こっているのか。

中略

【世界各地で危機に立つ大学】

 中野:「大学が崩壊しつつある」という危機感は実は日本に限らず、グローバルな現象としてあるのではないでしょうか。アメリカの政治学者ウェンディ・ブラウンが『Undoing the Demos』の最終章で、

「大学は新自由主義に侵され、ランキング付けされてカネになることだけやらされ、古典的教養といった学問が滅びつつある」

と問題提起していました。危機意識が日本とまったく同じなんです。

中略

新自由主義的に解釈された現代のリベラリズムは、皮肉なことに「リベラル・アーツ」を、つまり人文学的な教養教育を大学教育からなくそうとしていると批判します。

「リベラル・アーツ」は、人が自分自身を陶冶し、古典的意味での自由な人間、つまり刹那的欲望に負けない自律的な人間となるために必要だとかつては考えられていました。

しかし、日本もそうですがアメリカでも、稼げる人間を作り出すことが近年、大学の第一目標となり、人文学的な教養などいらないというふうになってしまっているというのです。

中略



佐藤:大学の成り立ちは宗教と切り離せません。アメリカのハーバード大学も、創立者の一人、ジョン・ハーバードにちなんで名付けられています。彼が遺言で、財産の半分と蔵書のすべてを大学に寄付したことへの返礼ですが、この人は牧師でした。もともと中世ヨーロッパでは、「あらゆる学問は神学の婢(はしため)」と言われたほど。神という超越的価値に奉仕すればこそ、世俗的な存在である国家の口出しを封じることができた。

 藤本:そうですね。だからこそ「近代の大学」の理念、すなわち、大学は人間の理性に基づく真理の探究の場である、という理念の登場が重要になると言えます。さらにいえば、そうした真理の探究として大学を守るには、主に2つの条件があると考えられていました。

第一の条件は、「国家に庇護されつつも、国家から干渉を受けない場であること」であり、第二の条件は、「教員の研究と学生の学びが一致すること」です。これは「研究と教育の統合」という言葉で表現されます。

 このように、大学は国からお金はもらうけれども、研究内容、教育内容、運営方法については口を出されない、ということが重視されていました。そして、それが認められていたのは、「ほかから干渉を受けることなく真理の探究を行う場が存在すること、それが社会の発展に寄与し、国家にとっても有益である」という共通理解があったからでしょう。

 大学では、学校教育とは違って、教員が既存の知識を効率的に教えるのではなく、指導する側にも探究すべき問いがあります。だからこそ、その問いを深めていく研究のプロセスに学生もかかわることができ、学ぶことができる。真理を探究する場としての大学は、学問の自由、大学の自治が前提となって初めて成立するものだと考えられたわけです。

中略

「なぜ大学(人)だけ、そんな特権を享受できるのか? 根拠はいったい何なのだ!」となってしまう。

 その答えは「国家は現世を支配するが、われわれは現世を超えた価値に仕えているから」以外にないでしょう。理性だけではダメで、やはり神が必要なのです。

中略


 佐藤:それは必然の帰結です。合理主義・啓蒙主義に走り、神への奉仕を捨てたあとの大学自治の根拠は、藤本さんもおっしゃったように「国家の介入を拒否し、自由に研究活動を展開したほうが、国や社会に大きなメリットをもたらせる」とならざるをえない。政府とウィン・ウィンの関係を築くことで、特権を維持しようとしたわけです。

 しかしこれは「現世を超えた価値への奉仕」を、「現世的価値への効率的な奉仕」に置き換えている。国家は現世を支配する以上、こうなるとハイデガーへの道は不可避です。「学問が発展すれば、国も社会も発展する。大学自治が重要なのは、そのような発展を効率的に推進するためだ」と主張したら最後、国家の介入は(論理的に)拒否できても、国や社会、ないし民族への奉仕は拒否できません。

中野:僕は研究機関としての大学は、効率性を求めるべき場ではないと思っているんです。

 時間をたっぷり与えて「好きなことをやれ」と言われたら、ごく少数の、本当に学問が好きで、学問に優れた人間は、自分から勝手に優れた研究を始めるんですよ。文系の場合、お金すら大していらない。その研究はその時代には何も成果が出なかったとしても、30年後、100年後に価値が見いだされるかもしれない。

 そういう人たちは権威主義も何も一切関係なくて、「とにかく研究させてくれ。研究費だけ出して、あとは放っておいてくれ」と、それだけ思っている。たぶんそういう人たちが世の中には必要なんです。好き放題にやれと言われて、100年後に認められるような成果を出す人間というのが、この世に0.003%ぐらいはいて、われわれ凡人は「そういう人間も必要なんだ」と寛容に認めなくてはいけない。

 ではそういう人をどこに置いておくかといったら、大学ぐらいしかない。ほとんどの先生が趣味的な研究に没頭する役立たずで、学生はみな自由放任で遊んでいてもかまわない。そうでないと、凡人には理解しがたい偉業を成し遂げる0.003%の天才を活かすことができないから。大学とは本来、そういう非効率であるべき場だと思います。そういう天才のことが理解できない秀才の官僚やビジネスマンが大学を効率的に経営したら、天才たちは居場所を失うでしょう。

後略

★常日頃から、大学は無駄の塊だと思っていました。自分が学んだ法学部においても、結局、国家資格取得を目指さない大学への就学は、時間の無駄なのではなかったのか、と。

しかし、確かに、大学生活で自由な時間をもらい、本を300冊読み、日本中を旅し、いろんなアルバイトを経験したことは、学問の成就という本筋に集中できなかったものの、生きるための財産・人生を駆動するガソリンになっています。受験勉強のように、一心不乱にやるべき作業に没頭するということがまずは基本ですが、これを縦軸とすれば、思ったことを好きなようにやる、という横軸を広げる作業もまた、大事なことだと、本記事を読んで、再確認した次第であります。(黄昏のアヲ)

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%83%ac%e3%83%99%e3%83%ab%e3%81%a7%ef%bd%a2%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e3%81%8c%e5%b4%a9%e5%a3%8a%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%ef%bd%a3%e6%a0%b9%e6%9c%ac%e5%8e%9f%e5%9b%a0-%e7%a0%94%e7%a9%b6%e6%a9%9f%e9%96%a2%e3%81%af%e6%9c%ac%e6%9d%a5%ef%bd%a4%e5%a4%a9%e6%89%8d%e3%82%92%ef%bd%a2%e9%a3%bc%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%8a%e3%81%8f%ef%bd%a3%e5%a0%b4%e6%89%80%e3%81%a0/ar-BBMYBBJ?ocid=OEMDHP15#page=2

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