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2018年09月06日22:19

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終戦の歴史に埋もれた2通の降伏文書

■終戦の歴史に埋もれた2通の降伏文書
(ニューズウィーク日本版 - 09月06日 17:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=171&from=diary&id=5277209
『ニューズウィーク日本版


<太平洋戦争が公式に終結した1945年9月2日――米戦艦ミズーリ号上で日本の敗戦を印象付ける「事件」が起きていた>


日本は1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾したことを天皇が玉音放送で公表した日をもって「終戦記念日」とした。ところがアメリカでは、8月15はなく9月2日を「VJデー」(対日戦勝利の日)と定めて長年祝い続けた。1945年9月2日とは何の日かといえば、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」号の艦上で日本と連合国が「降伏文書」に調印して停戦協定を結び、日本が公式に無条件降伏した日なのである。


このとき調印された「降伏文書」は2通ある。1通はアメリカが所有し、もう1通は日本が所有した。現在はワシントンの国立公文書館と東京・麻布台にある外交史料館にそれぞれ保管されている。


ところが、この2通の降伏文書を見比べてみると、明らかな違いがある。アメリカが保管している降伏文書は調印者の名前が整然と並んだ見栄えの良いものだが、日本に保管されている降伏文書は書き損じが多く、訂正箇所も多々あり、まことに乱雑な印象を受ける。こんな乱雑なものが公文書として認められるものだろうか。


同一文書であるはずの2通の公文書が、一方は乱雑で一方は整然としているという事態がなぜ生じたのか。この歴史的事実が注目されることは、これまでほとんどなかった。今回、「2通の違い」が生じた本当の理由と当時の詳細な状況が初めて明らかになった。


その謎を解く人物がニューヨーク在住のアメリカ人で、JPモルガン・チェース元上級取締役のピーター・ラール(79)だ。彼の父親であるデービッド・ラール大佐は終戦当時、ダグラス・マッカーサーの側近の1人として日本の占領政策に深く関わり、ミズーリ号の調印式の設営を取り仕切った実務責任者だった。ピーター・ラールは、父が残した大量の米軍資料を手に、当事者しか知らない数々の「歴史秘話」を筆者に語ってくれた。


デービッド・ラールは1901年、インディアナ州で生まれた。1923年にウェストポイントにある陸軍士官学校を卒業後、陸軍派遣生としてマサチューセッツ工科大学(MIT)で機械工学を修め、30歳で妻ペギーと結婚して2人の息子に恵まれた。彼はワシントンの陸軍参謀本部に文官として勤務したが、第二次大戦初期にヨーロッパ戦線に派遣されて武官としての経験も積んだ。


1941年、日本の真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まると、フィリピンを占領していた米軍は日本軍の猛攻を受けて劣勢を強いられ、マッカーサー司令官は「アイ・シャル・リターン(必ず戻る)」の言葉を残してオーストラリアへ撤退した。


ワシントンの陸軍参謀本部はマッカーサーの要請に応じて、ラール大佐をフィリピン奪還の作戦アドバイザーとしてオーストラリアへ派遣。ラールは日本軍の布陣を研究した末に、陸海軍合同作戦の「かえる跳び作戦」――米軍の陣地を次々に移動させながら敵の重要拠点をたたく作戦――の原案を練り上げ、攻勢に転じるきっかけをつくった。


その功績が認められて文官としても武官としても勲章を授与され、「太平洋戦争の名作戦家」と称賛された。終戦時には、連合国軍最高司令官となったマッカーサー将軍の側近として日本に赴任し、連合国軍総司令部(GHQ)のG3(参謀作戦部)に在籍した。


要求文書と3つの命令書


ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書の調印式について紹介する前に、8月15日から9月2日までの日米の動きを、ラール大佐の資料と手紙を基に簡単に振り返っておこう。


父ラール大佐の写真に見入るピーター・ラール Q. SAKAMAKI


1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾したことを公表すると、翌16日、連合国軍最高司令部は日本へ電報を発し、フィリピンのマニラで日本上陸のための準備会議を開くので、日本から代表数人を派遣するよう通告した。日本は大本営参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権として、海軍の横山一郎少将、外務省調査局長の岡崎勝男ら、総勢16人の代表団を結成した。


8月16日の時点で、ラール大佐はマニラにある連合国軍最高司令部の参謀本部におり、そこでマッカーサーの右腕のスティーブン・チェンバレン准将の下で「マニラ会議」の準備作業と文書作成に着手した。彼が連日徹夜で作成した文書は「1945年8月19日及び20日のマニラにおける日本側降伏使節団に対する要求文書」(以下、「要求文書」と略す)と、3種類の「命令書」―― (1)天皇布告文、(2)降伏文書、(3)陸海軍一般命令第一号――である。


8月19日、日本の代表団は米軍指定の「安導権」を示す「緑十字」のマークをつけた白塗りのDC3型、後に一式陸上攻撃機2機に分乗し、羽田から木更津経由で九州へ向かい、伊江島で米軍のDC4型輸送機に乗り換えてマニラに飛んだ。午後6時、マニラのニコルス空港へ到着し、官舎で七面鳥の豪華な夕食を振る舞われた後、午後9時、連合国軍最高司令部のあるシティ・ホテルで会議が始まった。


連合国軍参謀長のリチャード・サザーランドが代表として、まず日本の陸海軍の装備と配置状況を説明するよう求めた。次に日本の天候、南九州の鹿屋海域と関東地方の陸軍の配置状況、空港の規模、東京湾沿岸海域の海軍の配置状況について詳細に聴取した。


そしてラール大佐が作成した「要求文書」に基づき、8月26日に米軍の先遣隊が上陸予定の南九州、28日にマッカーサーが上陸予定の厚木海軍飛行場周辺、それに降伏文書の調印式を行う東京湾の海域と関東地方に配置された日本の陸海軍の完全撤収を2日間で完了するよう要求した。


ラール大佐の調印式準備


翌20日の午前中、3種類の「命令書」が日本側へ手渡された。午後1時、日本の代表団16人は会議室から追い立てられるように空港へ送られ、再び米軍のDC4型機でマニラを離れた。


21日以降、マニラを大型台風が直撃したため予定を2日ほど遅らせて、28日に米軍の先遣隊150人が南九州へ向けて出発。ラール大佐を含めた50人の別動隊も厚木へ向かった。そして2日後の30日、マッカーサー将軍が厚木海軍飛行場に降り立った。


黒いサングラスにコーンパイプ(トウモロコシ製のパイプ)をくわえ、愛機「バターン」号のタラップを下りる姿は颯爽として見えた。だが内心では極度に緊張していたのだと、ラール大佐は後から聞いた。マッカーサーだけでなく、米軍兵士は誰もが日本の至る所に命知らずの特攻隊員が潜んでいて、いつ爆弾を抱えて突撃してくるかと恐怖に怯えていたのだという。


マッカーサーを乗せた車列は猛スピードで横浜へ向かい、山下公園に面したホテルニューグランドに滑り込んだ。ホテルに先行していたラール大佐は寸暇を惜しんで妻に手紙を書いた。


「今日は快晴だ。僕が今いるところは、水洗トイレ付きの清潔な部屋で、横浜のグランドホテルだ。東京から横浜の間の水道を止めて住人を立ち退かせ、われわれに優先的に水道水を提供してくれている......市内約20マイル圏内には警官が配置されて巡回し、道路にはピケが張られている」


便箋4枚にびっしり書かれた手紙からは、米軍の厳重な警戒ぶりがうかがえる。


ラール大佐のミズーリ号乗艦証 COURTESY OF ROMI TAN


1945年9月2日――。東京湾の横須賀沖に停泊したミズーリ号の甲板で「降伏文書」の調印式が挙行された。東京湾には連合国軍の船舶が無数に配備され、陸と海と空から厳重な警戒網が敷かれた。


「降伏文書」調印式の有名な写真がある(冒頭写真、本誌には連合国代表まで写った写真を掲載)。テーブルを挟んで、大日本帝国政府を代表する重光葵(まもる)外務大臣、大本営を代表する梅津美治郎陸軍参謀総長など、日本側代表11人が3列に並んでいる。テーブルの反対側にはマッカーサーが演説に立ち、その後ろに各国代表と米軍将校たちがずらりと整列している。


甲板には2枚の星条旗が掲げられ、1枚は真珠湾攻撃の際にホワイトハウスにあった48州の星が描かれた米国旗で、もう1枚は1853年の黒船来航の際、日本に開国を迫ったマシュー・ペリー提督が艦隊に掲げていた31州の星が描かれた米国旗だった。マッカーサーは暗に真珠湾攻撃への報復と「2度目の開国」を誇示していたのである。


ピーター・ラールの書斎で、調印式当日の古いアルバムを見せてもらった。ラール大佐のミズーリ号乗艦証があった。彼は当日の朝8時前に乗艦し、会場の設営に奔走したのだという。


「ほら、調印式で使った長テーブルの上にテーブルクロスが掛かっているだろう。実はこれ、父が用意したものだ」と、ピーターが笑って指さした。


話によれば、調印式直前に甲板に置かれた長テーブルは古くて汚れていた。厳粛な式典にふさわしくないと思ったラール大佐は急いで船室に下りると、乗組員たちがコーヒーを飲みながらポーカーをしているテーブルのテーブルクロスが目に留まった。「おい、ちょっとそれを貸してくれ」と、声を掛けざま勢いよく引っ張ると、コップに残ったコーヒーがこぼれてテーブルクロスに茶色い染みを作った。「父は調印式の間中、コーヒーの染みが気になったと言っていた」


ラール大佐にはもう1つ気掛かりなことがあった。日本の全権代表である重光外務大臣が上海在勤時代に爆弾で負傷して右足を失い、義足を着けていたことだ。不自由な体で舷梯をよじ登り、艦船に乗り込めるかどうか。安全策としては籠でつり上げる方法があるが、仮にも一国の代表であるから尊厳を重んじなければならない。過剰な対応をしては非礼になるが、放っておくわけにはいかない。思案した揚げ句、乗組員数人に命じてそれとなく身辺で見守りながら、必要に応じて十分に手を貸すよう指示を与えた。


署名を誤ったカナダ代表図らずも、重光は手記(『重光葵手記』中央公論社、1986年)の中で、この日の午後、天皇に拝謁したときのことを、こう記している。


「陛下は記者(重光)に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになった。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答へし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友誼的にはあらざりしも又特に非友誼的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申上げた」


この「極めてビジネスライク」であった印象の陰には、ラール大佐らアメリカ側の必要十分かつさりげなく対応しようという繊細な配慮があったのである。


午前9時2分、マッカーサーがマイクの前で23分間にわたって演説した。これは予定になかったものだが、世界中に放送された。テーブルに2通の降伏文書が置かれ、最初に日本側が調印した。マッカーサーはパーカー製万年筆ビッグレッドを5本用意していたが、重光はアメリカ側の筆記具を使用するのを潔しとせず、随員の加瀬俊一外務秘書官が差し出したパーカー製バキュマチックを使って漢字で、次いで梅津参謀総長が署名した。


連合国側は、最初に連合国軍最高司令官のマッカーサーが署名した後、各国代表が順次署名していった。アメリカ代表のチェスター・ニミッツ、中華民国代表の徐永昌、イギリス代表のブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表のクズマ・デレビヤンコ、オーストラリア代表のトーマス・ブレイミーと続き、カナダ代表のムーア・ゴスグローブの番になったとき、不測の事態が起きた。


指定された署名欄を間違えて、次のフランス代表の欄に署名してしまったのだ。それに気付かず、フランス代表のフィリップ・ルクレールも、次のオランダ代表の欄に署名した。オランダ代表のコンラート・ヘルフリッヒは間違いに気付いてマッカーサーに告げたが、そのまま次の欄に書くよう指示されて渋々署名した。最後のニュージーランド代表レナード・イシットは押し出される格好で、仕方なく欄外に署名した。一方、この後で署名されたもう1通の降伏文書は、全員が指定された欄に書くことができた。


カナダ代表が誤って署名したことについて、公式には何も発表されていない。だが今回、ピーター・ラールの述懐によって、なぜ誤って署名したのか、その真相が明らかになった。


日本が所有する降伏文書(上)には署名の書き損じと訂正のイニシャルがはっきりと残っている(下がアメリカ側の所有する降伏文書) DIPLOMATIC RECORD OFFICE OF THE MINISTRY OF FOREIGN AFFAIRS (TOP), NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION


祝杯を理由にやり直し拒否


ピーターが秘蔵する古いアルバムには「Drunk as a skunk」と赤ペンで書き込みがあった。実は、カナダ代表はへべれけに酔っぱらっていたのである。彼は前祝いと称して前日から徹夜で飲み続け、調印式では足腰が立たないほど酩酊し、周囲に酒臭さを振りまいて「スカンクのように酒臭い」ありさまだったのである。そのせいで署名欄を間違えてしまったらしい。


調印式を終えると、連合国の代表たちはミズーリ号の地下食堂に下りて祝賀会に入った。艦上では、日本側に降伏文書が手渡された。加瀬外務秘書官が間違いを発見して、調印のやり直しを申し出た。だが、式典責任者のサザーランド参謀長は「もうみな乾杯しているから」と拒絶し、カナダ代表以下4カ国の間違った署名欄の横に、1つずつ自分のイニシャルを書いて訂正確認とし、事を済ませた。日本は4カ所の間違いと4つの訂正イニシャルがある降伏文書を手渡された......。


アメリカ側は、無論「完璧」な出来栄えのほうを手にした。調印式直後にマッカーサーは最初のコピー4枚を作成し、そのうち1枚を感謝を込めてラール大佐へ贈った。ラール大佐の2人の子息が父の遺品と共に大切に保管してきたものだ。


アメリカは降伏文書をワシントンに持ち帰った後、一般公開して勝利宣言し、9月2日を「VJデー」(対日戦勝利の日)と定めて祝日にした。1995年、ビル・クリントン大統領が戦後の日本との友好関係を考慮し、「VJデー」の名称を改めて「太平洋戦争終結日」とし、連邦政府の祝日から除外した。だが、2通の降伏文書はそのまま残った。


もしアメリカが手にした降伏文書に書き損じがあったら、果たしてアメリカは訂正確認のイニシャルだけで済ませただろうか。


それにしても、厳粛な式典で酒に酔って書き間違えたとは、なんとあきれた不謹慎な振る舞いではないか。書き損じの「降伏文書」を受け取らざるを得なかったところに、敗戦国・日本の悲哀を見た思いがする。


2通の異なる「降伏文書」の存在は、第二次大戦の終結を宣言した歴史的な公文書に刻み込まれた、前代未聞の大失態の痕跡であったのである。


(筆者は東京生まれ、慶應義塾大学卒業。ニューヨーク在住。本籍は中国広東省。元慶應義塾大学訪問教授。著書に『中国共産党を作った13人』『日中百年の群像 革命いまだ成らず』『近代中国への旅』など多数)


<本誌2018年9月11日号[最新号]掲載>




譚璐美(たん・ろみ、作家)』
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