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2018年09月05日11:44

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記者はヒトデでもエスパーでもお袋でもない

太田市長「お粗末」発言に弁明
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5274741


真意なんか、他人どころか自分だってわかるわけねえんだから、真意がどうなんて弁明する方が逆に変だとはどうもこの手の人はわからないらしいですな。
どうやったらある程度伝わるかを考えた方がよほど建設的ですよ。

突き放して終わりにすれば完結したものを、何を期待しているのかわからない https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966610078&owner_id=65933753&full=1

 <2>(監督の)コメントは規則に違反してもよいと意図するものではなく、選手に「厳しさ」を求めていることから発したもの

って読んだんですが、まあ、そんなものを信じるのがどこにいるのかな?って、広報はむなしくならないの?とは思ったんですが、受け取り手のせいにしだしている時点で、ダメなんですよ。というか、後付けで広報がひねり出したの、バレバレです。

ジャック・ラカンの『エクリ』のシステムを知ってれば、わかるはずなんですがねえ。余談を招く言い方をしてはいけないよ、っていうことの、構造的な説明がかいてあるので。

「『文は(宛先の)人である。』(・・・)言語運用において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たちに到来する。 但し、順逆の狂った仕方で。」(Jacques Lacan, Écrits I)

私たちが語るとき、私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない、と書いたところで、カタいので読まれないんでしょうかねえ。

「そんなつもりで言ったんです」という説明も、「そんなつもりで言ったんではありません」という言い訳もあまり意味がないことになりましょう。
何故ならば、「どういうつもりで言ったのか」を決定できる人間は、無論発言者本人を含めて、どこにも存在しないからです。

そういえば、かのバートランド・ラッセルは、ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論』の序文にこんなことを書いておりましたね。

「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。
それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。
(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。
形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。
それは、世界の境界なのです。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、山元一郎訳『論理哲学論』中央公論世界の名著58,1971年、pp.319-320)

つまり、言語は私たちを幽閉している檻であって、自分が檻に幽閉されていることを知らない人間は、決して檻から出ることができないことになります。
彼の目には鉄格子が「世界の終わり」であり、鉄格子の手前までが全世界だから、ということですね。
彼はその世界では100%の自由を満喫することができて、自分を「言語の主人」であると思い込むことによって人は「言語の虜囚」となるわけですね。
あるいは「言語の虜囚」になることを代価として「言語の主人」であるという夢を買うことができる。

他人はお前さんの母親かエスパーではない、というのは、言語運用の大切な第一歩です。
それをこの年になってまで教わってこなかったというのは、すこしばかり、いや、正真正銘の生き恥と呼ぶべきことですねえ。
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