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2018年08月04日03:38

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葬儀から帰宅して「透明なゆりかご」第3話

今日というかすでに昨日の8/3(金)は、先週亡くなった叔母の葬儀。

斎場で火葬した後に、叔母が暮らしていた施設の部屋で告別式代わりのお別れ会。とはいっても、お坊さんに読経してもらったので、ほぼ告別式。ただ、火葬が先なので、そこが通常の順番と逆になりました。

とはいえ、施設の職員や他の入居者にも参加してもらえたので、斎場でやるよりもよかったと思いました。施設の所長も休日返上で駆けつけてくれました。やや雑な言い方になりますが、葬儀は斎場よりも自宅がいいような気がします。

で、帰宅してから、ドラマ「透明なゆりかご」第3話を視聴。

第1話を見て、演出がオシャレすぎて鼻に付くな〜と思っていたら、演出が柴田岳志さんだったので、えらく納得しました。この人の演出には、昔から違和感を感じることが多かったので……。

とはいえ、第2話、第3話とみているうちに違和感をあまり感じなくなりました。特に第3話は、出演者の表情をとらえるカット割りがとてもよくて、「第3話だから演出家が変わったのかも」などと思いながらエンドロールを見たら、意外にも今回も柴田さんでした。

とはいえ、これはこれで納得できる部分もありました。田畑智子が重要な役で起用されていたからです。柴田さんといえば、あの「私の青空」(脚本・内館牧子、2000年)のチーフ演出だった人ですから。岩井俊二に「自分の映画みたいな照明をしている」と言わせた、当時としてはアヴァンギャルドな(?)朝ドラです。

第1話の演出が鼻に付いたのは、第1話は基本設定の説明がメインになるので、ストーリーガ「イマイチだったからかもしれないと思いました。そんな薄味の脚本に対して、演出だけが脚本の内容と無関係に自己主張しているような感じがして、そこがすごく鼻に付いたのかもしれません。

ただし、これはすべての連ドラに当てはまる傾向です。第1話の脚本は、設定の説明を優先して、単純なストーリーになりがちですが、逆に第1話の演出は、お金や時間をかけて手の込んだことをやりがちです。最近だと「健康で文化的な最低限度の生活」の第1話の脚本が、それの典型です。

話を戻して「透明なゆりかご」の第3話。この回は、登場人物の内面描写・心理描写が重要になるようなストーリーだったせいか、ひとつひとつのセリフの流れの中で、表情演技や芝居のニュアンスを的確に切り取る、という演出サイドの意気込みみたいなものが、強く感じ取れました。それは、無意味に手が込んでいた第1話とは大違いなんですが、この違いをわかってくれる人が世の中に何人いるのかは、よくわかりません。(^^;;

ただ、今回、ボクが一番書きたいことは、そこではありません。

田畑智子が抱えていたメンタリティーは、ボクにとっては他人事ではない、ということです。「誰も悪くない。運が悪かった」では、突然の夫の死を受け入れられない――という感覚は、昨年末から、ボクが抱えてきた感覚とまったく同じなんです。ボクにとっては、母親の転倒事故も、5週間後の急変による死も、どちらも想定外の出来事だったわけで、「誰が悪かったのか? 何が悪かったのか?」という思いは、今でも消えずに残っています。

ボクの場合、強いて言えばボク自身に落ち度があると言えるのですが、「神様(運命)は、その程度の落ち度も許してくれないのか」という思いも強くあります。田畑智子も言っていましたが、「運が悪かった」ではなかなか納得できないわけです。この世界はもともと理不尽なものなんだということは、ボク自身も理解しているつもりですが、その過酷さをこの身に突き付けられると、どうしても受け入れられない部分があります。

ただ、ボクの場合は、田畑智子みたいに周囲に怒りをぶつけたりしないし、そうしたいと思ったこともありません。そこはちょっと違います。まあ、周囲に清原香耶(みたいな人)もいませんが……。(^^)v

ちなみに、ドラマでは、臨終の直前に夫の目から涙が流れましたが、あれは現実にあり得るのか、ちょっと気になりました。ボクの母親の場合、半昏睡状態のときは、涙が流れてきたことが何度かあって、今、思い出すだけでも辛いものがあるのですが、脳死の状態だとどうなんでしょうか。皆無じゃないけど、皆無に近いような気がします。

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