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2018年07月17日12:54

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フィクションに決まっている

 川中島の合戦の直前に謙信に忠誠を誓った信州の豪族は謙信が敗勢になるやいなや信玄に次から次へと寝返りを打ってきました。それゆえ謙信は恨みの言葉を書き連ねた文書を神社に奉納しています。こんな謙信が信州の民のことを考えるはずはないです。敵に塩を送ったというのはフィクションですね。




■「敵に塩を送る」は本当にあった? 上杉謙信と武田信玄、美談の真相調べてみたら否定の嵐!
(ウィズニュース - 07月17日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5202879

突然ですが、山梨県にまつわる話をお届けする「山梨フカボリ特集」を始めました。今回は「敵に塩を送る」という故事についてです。たとえ敵でも困っていれば助ける。戦国時代、越後の上杉謙信がライバル・甲斐の武田信玄に塩を送ったという逸話が基になっています。いかにも日本人の好きそうなストーリーですが、本当にあったできごとなのでしょうか? (朝日新聞甲府総局記者・田中基之)
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塩を送った記述はあるのか?
 この話の発端になっているのは、「塩留め」です。

 <塩留め>1567年、甲斐、駿河、相模の「三国同盟」が崩れ、駿河の今川氏真が相模の北条氏康と組み、甲斐の武田信玄へ塩を売ることを禁止した。

 海のない甲斐の人々は、必需品の塩が手に入らないと本当に困ったことでしょう。

 謙信の地元越後の古文書に塩を送った記述がないか、新潟県の上越市公文書センターの学芸員、福原圭一さんに尋ねてみました。
「史実ではありません」(きっぱり!)
 福原さんは、「戦国時代の資料では、塩を送ったという文書や塩などの流通に関する文書は一切ありません。歴史的な事実ではありません」ときっぱり。

 塩の故事が書かれているのは1696年の「謙信公御年譜」だといいます。この文書が完成したのは上杉家が越後から米沢に移った後です。
「ありました」(あるの?!)
 それならばと、山形県の米沢市上杉博物館の学芸員、角屋由美子さんにお願いして調べてもらいました。

 すると、「ありました」。

 うれしい返答に、期待が高まります。御年譜によると、謙信は次のように語ったようです。

 「今川氏真から塩を留めるように頼まれたが、甲斐の人たちが苦しむだろう。氏真の手段は浅はかだ。人道に背くことはできない。信玄とは弓矢で戦う。以前と同じように信玄の領地に塩を送るように」
「史実として受け止めてはいません」(えー!)
 やはり、本当だったんだ……そう思いましたが、角屋さんに否定されました。

 「これを史実として受け止めてはいません。謙信公御年譜の記述は、最近の研究では間違いがあることがわかってきました」

 何をもとにこの部分が書かれたのかわかりませんが、上杉家の歴史をつづる中で脚色された可能性があるようです。
「義の人」ですよね?
 でも謙信は「義の人」と言われます。困っている敵に塩を送ることも考えられるのでは? 

 そんな問いを角屋さんにぶつけると、一蹴されました。

 「研究者の間では、謙信は義の人とは見られていません。生き残るためにいろいろな駆け引きのあった時代。全部、義の心でこたえていたら、上杉家はつぶされていたでしょう」
故事をたどっていくと
 否定、否定ときましたが、まだあきらめません。

 他に証拠となる文書がないか、帝京大学文化財研究所(笛吹市)の所長、萩原三雄さんを訪ねました。

 塩の故事をたどっていくと、一番古い文献は1716年の「武将感状記」だといいます。その後、歴史家の頼山陽が1827年に献上した「日本外史」で美談として紹介されました。

 萩原さんは「武将感状記、さらに頼山陽で日本国中に広まったのではないか」と解説してくれました。
塩を運んだ人の子孫がいた
 脚色された謙信公御年譜の記述が、武将感状記などに引用された可能性がありそうです。歴史事実は難しい……。

 そこへ――。450年前、越後まで塩をとりにいき、甲府まで運んだとされる塩屋孫左衛門の18代目がいるらしいという情報が。石油製品販売業「吉字屋(きちじや)」の社長、高野孫左ヱ門さんです。

 高野さんによると、塩問屋だった初代が信玄の命を受けて越後へ行き、1568年1月11日に松本、14日に甲府へ塩を運んだそうです。

 ただ、塩が越後から甲府に運ばれたことを示す資料はないといいます。

 高野さんは「謙信公御年譜の中に、以前と同じように塩を送るように、と出てきます。謙信は塩留めを知りながら塩の流通を止めなかったと考えています」。吉字屋は現在も塩を取り扱っています。

「塩が届いたという文書はありません」
 越後から松本に塩が到着したという1月11日は「塩の日」に定められています。

 松本市では塩が送られたことを記念して「塩市」が誕生したとされています。「あめ市」と名前は変わりましたが、現在も続いています。

 松本市立博物館の前館長、窪田雅之さんに確かめてみました。

 「上杉家からの塩が届いたという文書はありません。文書で残っているのは、江戸時代初めから塩市が開かれ、塩が売られていた事実だけです」
送ったわけではなさそう
 取材を総合すると、謙信は困っていた好敵手信玄に塩を送ったというわけではなさそうです。おそらく、甲斐に塩を売ることを止めなかったということでしょう。

 しかし「義の人」の振る舞いとして脚色されたからこそ、日本人の心をしっかりとつかんだのではないでしょうか。
美談にちなんだお菓子も
 ちなみに、新潟には「情けの塩最中」という名菓があります。製造元「生菓子のかなざわ総本舗」のホームページによると、「上杉謙信公が、敵に『塩』を送り情けをかけたことに因み、創作されたお菓子」だそうです。このような形でも後世に受け継がれています。
取材を終えて
 私は歴史的な取材をすることが多いのですが、いつも感じていることがあります。この上杉謙信もそうですが、武田信玄らの武将も、つくられたイメージが大きいということです。ある歴史家に聞いたところでは、武田信玄は江戸時代になって人気者になり、いろんな文書が書かれたけれど、その多くはうそだとか。

 今回の塩留めについてさらにいうと、東京国立博物館には「塩どめの太刀」とも言われる太刀があります。塩を送ってもらったお礼に、武田信玄が上杉謙信に贈ったとも伝えられているそうです。でも上杉家の台帳には、信玄の父、武田信虎から贈られた刀となっているようなので、これもつくられた話でしょう。

 いかにも面白いエピソードがつくられ、武将のイメージができあがっていく。でも、それが人の心を打つから、われわれも歴史を好きになっていくんですね。心の片隅で本当かなあと思いながら、歴史を楽しんでいけばいいのではないでしょうか。
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