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2018年07月04日02:15

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7/3 ワールドカップ、クロ現「息子介護」を見て

何を見ても、母親のことを考えてしまうというのは、今のボクの日常。
緊急地震速報を見ても、条件反射で「もう母親の心配をしなくていいんだ」と思ってしまう。

今日は、ワールドカップ、対ベルギー戦の報道を見ながら、母親のことを考えしまった。
試合そのものは見ていないが、日本チームは、アディショナルタイムで3点目を取られて逆転負け。ただ、そこに至る状況を見ると、積極的に点を取りに行こうとして、逆にカウンターでやられてしまったようだ。

そういうところが、母親の最期とオーバーラップする。
母親が転倒したのは11/9日だが、10月から、週3日だったデイサービスをボクの発案で週5日に増やしていた。増やした2日はフィットネス系のデイサービスだったが、10月から転倒の日まで、約5週間、母親は1日も休まなかった。ボク自身も、母親の運動能力が改善していると認識していたし、対ベルギー戦ではないが、母親の体調に関して楽観的な展望を抱いていた。

転倒当日も母親はアクティブで意欲的だった。転倒の1〜2時間前に、どういうわけだか自室を片付けようとして、部屋の中をひっくり返して、収拾がつかなくなっていた。仕方ないので、ボクが片付けだが、いろいろと文句を言ったと思う。これが人生最後の、会話らしい会話。

そもそも元気でなければ、あちこちを歩き回って転倒したりはしない。夏場などは、ずっとソファーに座っていることも多かった。なまじっか元気になったことが、寿命を縮める結果になってしまった。

母親が転倒した、ほぼその時間帯に、ボクは母親の体調改善について、あれこれ考えながら、料理をしていた。将来の楽観的な願望に気を取られて、足元をすくわれてしまったような形だ。デイサービスを増やしたのもボクだし、玄関に段ボールを置きっぱなしにした責任の一端はボクにもある。正確に言うと、邪魔だからどかそうと思ったのだけど、どかそうと思った和室にも段ボールが置いてあったので、時間がかかりそうだから後にしようと、判断した。――すべては後の祭りだ。

スポーツの場合、積極的に攻撃に出て、結果的に負けてしまっても、それはそれでありなのかもしれない。しかし、人間の命の場合はどうだろう。やれることはやったんだと、肯定することは難しい。西野監督が試合後のインタビューで「追い詰めたましたが、何が足りないんでしょうね、やっぱり……」と言っていたが、あの感覚はものすごくよくわかる。当時のボクも同じような感覚だったから。「こんなに努力したのに、なんでこんな意地悪な結果になるんだ。期待だけ持たせて、いきなり地獄かよ」と。今でもそう思う。

夜、NHKの「クローズアップ現代+」を見たら、
「“息子介護”の希望をさがして 〜50代ディレクターの介護記録〜」と。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4153/index.html
https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/103/

母親を介護している息子の事例がいくつか紹介されていた。
この種の番組は、悲惨な例を取り上げることになるから、「うちはこんなに悲惨じゃなかったな」と思いながら見た。母親の状態も、ボク自身の介護も、番組に出てくる人たちよりはマシだったと思う。

もし母親が生きていて、この番組を見ていたら、何と言っただろう。
ボクの方は、おそらく笑いながら「この番組の息子よりは、ボクの方がマシだろう」と答えていたと思う。

番組は、「息子は親に対して、元気だった時のイメージを捨てられない」とか「母親を他人と思えば、気持ちが楽になる」など、ボクから見たら気休めにしかならないような言葉遊びが多くて、閉口する部分が多かった。この種の番組で、よくある傾向の一つ。

ただ、最後の方で、介護息子の人が「存在してくれていることの幸せ」と言っていたのが耳に残った。まさにそれだ、と思った。それこそが、ボクが失ったものであり、心を空虚にしている原因でもある。

……とはいっても、現実のボクは結構忙しくて、沈思黙考している余裕なんてないし、日記もなかなか書けない。(笑)


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