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2018年07月03日17:25

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ヴォルゴグラード=スターリングラード

 今回とりあげる映画『スターリングラード』(1993:ペーター・フォルスマイヤー監督)には、スナイパーは出てこない。しかし、約四半世紀前に撮られたこの作品は、未だに我々の「戦争観」を詰問してくる古典作品である。 筆者がこの作品を見たのは、約20年前の1996年の真夏のことだった。うだるように暑い日であったが、作品を見るうちに「冷房が要らなくなった」。
 その理由は簡単である。そこに描かれているスターリングラード攻囲戦が、あまりにも凄惨な戦いであったためだ…。
 
 1941年末、ソ連邦の消去を目指す当時の「総統閣下」は、モスクワと敵野戦軍の攻略に失敗! そこで翌1942年は「趣向を変えて」、敵国を経済・補給の面から屈服させようとした。
 具体的には、�〔い世北欺�で石油やその他の資源を産出するコーカサス地方を占領することによってソ連から資源を取り上げる、�▲魁璽�サス地方とロシア中心部を結ぶ補給路を切断することによってソ連を壊死させる、という2つの目標を追求しようとしていた。
 すなわち、当時のソ連における�〇餮擦寮源挫呂函↓∋餮擦諒箋誅�、の双方を破壊することによって、ソ連を屈服させる魂胆であった。おそらく、当時のヒトラーは「これ以外の方法をとれば、いくら切り刻んでも再び蘇るヒドラのごとくソ連は何度でも蘇る」と、考えたのであろう。

 1942年6月28日、先述の�´△量榲�を達成すべく「ブラウ(青)作戦」が発動された。�“嵬椶量槁犬燭襯魁璽�サス地方の占領はA軍集団の担当となった。
 A軍集団の目標はバクー(現在のアゼルバイジャン共和国の首都で、大規模な油田がある)の占領である。彼らは欧州とアジアの境界であるマヌィチ河を渡河した後に、遊牧民(カルムイク人:欧州に住む唯一の仏教徒と云われている)の首都であるエリスタを占領し、カスピ海沿岸のアストラハン市を空襲、そして、ダンスの得意なチェチェン人の都であるグローズヌィの一歩手前まで進出することになる。

 …そして、��番目の目標たるコーカサス地方とロシア中心部との間をつなぐ「大動脈」の切断を任じられたのがB軍集団であった。
 B軍集団の目標は、当時の南ロシアの交通の要衝であったスターリングラード(現在のヴォルゴグラード市)でありスターリングラード市での制圧を、B軍集団中のドイツ第6軍が受け持つこととなった。スターリングラードでは、この映画で描かれる通り「ロマンなんぞ、微塵もない」とばかりの苛烈かつ凄惨な市街戦が繰り広げられることになる。
 ちなみに市街戦によって破壊される前のスターリングラードは、コーカサス山脈付近の南ロシアにあるという地理的条件ゆえに(モスクワやペテルブルグと比較してではあるが…)温暖で緑豊かな街並み、そして、どこまでも整備されたインフラのため、当時のソ連人からは「住みたい街」の1つに挙がっていたという。




 映画は、1942年晩夏のイタリアのリゾート地から始まる。
 ドイツ軍の精鋭部隊の1つである戦闘工兵大隊は、北アフリカでの激戦をなんとか切り抜け、イタリアでの夏の休暇の最後の1日を愉しんでいた。換言するならば、彼らにとっての「天国/娑婆での最後の日」だった。ある者は非番の看護婦をナンパし、ある者は部下のために片足を吹き飛ばされた元指揮官の相手をしていた。
 そこへ無情にも、「全員集合!」の合図とばかりに行進曲が演奏されてくる。
 ビーチで濡れた体を拭く暇もなく、休暇を終えた兵士たちは急いで服装を整えて集合場所へと急ぐ。元指揮官は部下たちによって、泥酔したままで車椅子ごと集合場所へと運ばれる。たとえ泥酔したまま大隊の「朝礼」に出たとしても、彼が処罰されることは無いだろう。なぜならば、彼の軍人としてのキャリアは永久に終わったからだ。片足を失くした軍人に、いったい何が出来るというのか?
 そんな元指揮官の代わりに、部下たちにあてがわれた新任の指揮官は、ユンカー(ドイツの地主貴族:そんなに金持ちではない)出身のウィッツランド少尉だった。当初の彼は、新品の軍服と同じく「四角四面」な性格であると部下たちには思われていたが、やがて、そうではないことが判ってくる。ともあれ、彼の着任とともに兵士たちの休暇は終わった。そして、新たな任地/地獄は、スターリングラードだった。

 ロシアの穀倉地帯を超え、黒海を後にしてドン川を渡り、旅人を憂鬱にする茫漠たる大草原(ステップ)を超えると、列車はヴォルガ川沿いの産業都市であるスターリングラードに到着する。
 ここから戦場まで瓦礫やら工場やらの間を通り抜けることになるのだが、実は、そこは「前線」ですらなく、まだ「後方」だった。野戦病院では、魂を抜かれたような顔をした負傷兵たちが無表情で煙草を灰にしている。彼らの表情は、着いたばかりの兵士たちを憂鬱にさせると同時に「よかった!おれたちは、まだ無事だ」との思いを抱かせたことだろう。しかし数か月後には、負傷者の治療と後送そのものが不可能になることを、到着した彼らは知る由もなかった。この時期に負傷した兵士たちは故郷に帰ることができたため、実は「運が良かった」のである。
 
 ここで、当時のソ連軍がどのような戦略構想のもとに、スターリングラード市で戦っていたのかを書いておこう。チュイコフ将軍率いるソ連第62軍は、ネズミ捕りの「チーズ」の役割を担っていた。これが平原の戦いならば第62軍は全滅し、囮の役目を果たし得なかっただろう。
 しかしながら農民出身のチュイコフ将軍は、「瓦礫の迷路」と化したスターリングラードの地形を利用し尽くすことによって凄惨な近接戦を展開し、ドイツ軍の長所(飛行機と戦車を多用した電撃戦)を潰すことに成功しつつあった。換言すると、機動力に勝るボクサーの動きをクリンチしつづける「抱擁戦略」を採ったのだ。
 ただし、やはり「ネズミ捕りのチーズ」は、あくまでも囮だった。というのも囮にされた兵士の「平均寿命」は大変短かった。2001年版の映画『スターリングラード』(スナイパーが出てくる方)では次から次へと兵士たちを、背後のヴォルガ河まで数100mしかない「背水の陣/前線」へと送り込むことによって、辛うじて防いでいた様子が描かれている。
 おまけに、モスクワにある司令部(スタフカ)からは、「これからは、砲弾等の配給を減らすから、そのつもりで」という残酷極まりない通達がやってきた。普通の人間ならば「では、どうやって守れというのか?死守すらできんぞ!」と憤るはずのこの通達の意味するところは、「チーズ」に食らいついた「ネズミ=ドイツ軍」を叩きのめす作戦が、別の場所で準備されているということだった…。
 ちなみに、チュイコフは味方にとっても充分に残酷な指揮官だった。捕虜になることは許されず、少しでも「臆病風」に吹かれたと見なされれば(それが伝令兵の死亡などによる、命令の行き違いが理由であっても…)、銃殺を含めた過酷な運命が待っていた。

 話をスターリングラードに到着したばかりのドイツ兵たちに戻そう。
 到着した兵士たちは、「トラクター工場の占拠」を命じられた。一個大隊400名の工兵たちは目標までの距離を縮めるべく、音を立てずに忍び寄る…はずだった。しかし、一人の兵士の不注意により銃が暴発!居所を知られた兵士たちは、工場に立て籠もったソ連兵から機銃掃射を一方的に浴びる立場へと追い込まれた。数秒ごと、あるいは、数メートル移動する度に、誰かの命が失われ、誰かの手足が失われた。そして、パニックを起こした兵士は、そのまま置き去りにされて…「死んだこと」にされた。
 銃を暴発させた件の兵士の弱みに付け込み、中隊長で義手持ちのムスク大尉は「女房に手柄話を聞かせたいだろ?」と、件の兵士(=フェルドマン通信兵)に手榴弾を持たせて機関銃陣地の破壊を命じる。この結果、機関銃陣地は見事に破壊されたが、陣地へと突撃した兵士は「いけにえ」にされ、口から血を吐き出して戦死した…。「必要な犠牲だ。止むを得ん」と、ムスク大尉は部下を切り捨てたことを正当化した後、中小企業の社長よろしく戦闘を指揮していく。彼は、数か月後に凍傷に苦しむことになる。
 この後も、戦闘は苛烈さを増していく。最後の陣地は大量の爆薬でもって守備兵もろとも爆破され、生き残ったソ連兵たちは火炎放射器で生きたまま焼かれた。この苛烈極まりない戦闘が終わったころ、ドイツ側の約400名の戦闘工兵大隊は約60名にまで数を減らしていた…。
 当時のドイツ軍士官は、当時のスターリングラードの様子を次のように記す。

 ――スターリングラードはもはや街ではない。日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ河に飛び込み、必死に泳いで対岸にたどり着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。神よ、なぜわれらを見捨て給うたのか。――
                      (日本放送協会『映像の世紀』より)

 もっとも、とんでもない目に遭わされていた点においてはソ連軍のチュイコフも「似たり寄ったり」だった。1942年10月2日、チュイコフの司令部近くにある石油タンクをドイツ軍の爆弾、ないし、砲弾が直撃。この時にタンクの中の石油が炎上したのみならず、燃えさかる石油がチュイコフのいる司令部付近まで流れ込んできた。
 この時にスターリングラード方面軍司令部は「いま、どこにいる?」と、しきりにチュイコフたちの安否と現在位置を確認してきた。これに対してチュイコフは、おそらく、彼の体に染みついてくる炎の匂いにむせながら、無線通信機で次のように答えた。

            ――「煙と炎の中にいる」――

(Antony, Beevor, 1998 "STALINGRAD", Viking=堀たほ子訳、2002、『スターリングラード――運命の攻囲戦 1942-1943』朝日新聞社、228項より引用)



 



 かようにも情け容赦のない戦闘によって、魂を抜かれたような表情となった兵士たちであったが、彼らは「人間であること」までは止めてはいなかった。
 新兵のギギは戦友を誤射してしまい、恥も外聞もなく泣きじゃくる。これを見た伍長のライザーは「泣けるうちは大丈夫!今日はよくやった。」と、声をかける。後に彼は軍隊の持つ没義道な本質に怒りを爆発させることになる。年季の入った軍曹のロロは、件の新兵を「前線の息子」にしてしまい、煙草を投げ与えた。農夫出身の彼は「やることさえやってりゃ、余計な面倒事をしょい込むことはないさ」とばかりに、黙々と仕事をこなすタイプだ。そして、新任の指揮官たるウィッツランド少尉は、過酷な現実にうろたえながらも命令を下しつつ、兵士の面倒を見ようとしていた。このような彼の善良な性格のため、貴族出身の士官であるにもかかわらず、少尉が兵士たちの仲間となるのに時間はかからなかった。

 しかし、このような個性とかけがえのない物語を持つ人々を、「ひと山いくら」で地獄の釜に放り込むのも戦争だ。ノモンハン事変=ハルヒン・ゴルの戦い(1939年)、および、モスクワ防衛戦(1941年)にて活躍したジューコフ将軍は、スターリングラードにて「勝利するまであと一歩」のドイツ軍の背後を南北から包囲し、地獄へと叩き落すべく準備をすすめていた。見かけ上は単純な「天王星」作戦だったが、実はドイツ軍による包囲突破、あるいは、救出が困難な位置から包囲を仕掛けるべく、作戦は何度も「推敲」を重ねていたという。もっとも、この作戦が成功するまでソ連軍は何度も包囲され、大量の捕虜を出し、そして、包囲された友軍を見捨てる経験を何度もしていたのだが…。
 そして、1942年11月19日、映画の主人公たちがスターリングラードに到着してから約2か月後、ジューコフ将軍による「天王星」作戦が開始された。ドイツ軍の「脇」を守っていたルーマニア軍の防御陣地は抵抗むなしく突破・蹂躙され、11月22日にスターリングラード中心部から約50km離れたドン河沿いの町であるカラチ・ナ・ドヌにて2つのソ連軍部隊が合流!スターリングラード中心部を攻めたてていたドイツ第6軍は包囲された。換言するならば、ドイツ第6軍は故郷から2500km以上離れ、アジアにほど近く、厳冬の冷気で満たされた瓦礫の街に閉じ込められたのだ。これでは、流石の独軍参謀本部も救出のしようがない。かくして、ドイツ第6軍の「地獄行き」が決まった…。

 なお、スターリングラード市街地に立て籠もり、ドイツ第6軍の動きを拘束する「囮」の役目を担っていた先述のソ連第62軍は、12月中旬のヴォルガ河結氷によって補給が容易になり苦境を脱した。62軍の兵士たちは、久々にヴォルガ河対岸にあるサウナ風呂を愉しんだ。

 さて、我らが主人公のウィッツランド少尉であるが、部下たちの先頭に立って下水道の中、これまた凄惨な白兵戦を展開していた。その最中に部下の1人が片足を失い、ショックと苦痛でのたうち回っていた。少尉と仲間たちは何とか野戦病院へと件の部下を運び込む。しかし野戦病院は「てんやわんや」の大忙しで、苦痛にのたうち回る兵士を目の前にしても看護兵は「順番を待て」というだけだった。これに対して、情に篤いライザー伍長は文字通りにブチ切れ、看護兵に短機関銃を突き付けて「早く助けてやれ!!」と怒鳴り、治療を迫った。このことを憲兵に見とがめられ、ウィッツランド少尉たちは懲罰部隊で地雷処理にあたることにされた。
 厳寒の大平原にて地雷処理にあたっていたウィッツランド少尉たちだったが、やがて、戦車相手の絶望的な戦闘に加入することを条件に元の階級に復帰することを許される。補給の途絶えた包囲陣の中では戦傷者の手当てすらままならず、戦死者の補充もできないため、さしものドイツ軍も「人手不足」に陥っていたことから、少尉たちは「釈放」されたのだった。
 戦車に跨乗した歩兵を相手にする少尉たちにあてがわれた、唯一のマトモな装備は対戦車砲が一門のみ。あとは、数メートルまで戦車に近づかなければ役に立たない種類の兵器ばかり。ド素人の筆者から見ても、このような兵器で「戦車を仕留めようとする」ことは自殺行為同然であった。これにより次の戦闘が、トラクター工場での戦闘よりも更に悍ましいものになることは明らかだった。実際に、歩兵が跨乗した10台ばかりのソ連軍の戦車が「お前も!お前も!お前も!、俺の為に死ね!」と云わんばかりに出現した時、歴戦の兵士たちはほとんど、……泣きそうな顔になっていた。こうして、凄惨な戦闘が始まった。 

 いったい、誰が仕組んだ地獄やら…。

 唯一の対戦車砲により戦闘の火蓋が切られ、砲弾が命中したソ連軍の戦車は炎上する。しかし、幸先が良いのはそこまでだった。残りの戦車は、跨乗していた兵士を降ろし、塹壕までの間合いを詰め、ソ連軍の戦車はドイツ軍の兵士たちが籠る塹壕の真上で「アイロンがけ」よろしく兵士もろとも塹壕を押し潰し、中の兵士を生き埋めにした。これを見たドイツ軍の兵士は、「ここから出してくれ!家に帰る!」とストレスのあまり、外見をはばからずにバタつき、喚き散らす。あたかも、包囲されて「出口のない戦場」に閉じ込められた兵士たちの意見を代弁するが如く…。
 運の良い兵士は、塹壕を通り過ぎた戦車の後ろへ吸着地雷を取り付け、戦車を破壊することが出来た。そして、燃えさかる戦車の中からは、…火だるまになった戦車兵が出てきて雪原でのたうち回る。やがて戦車に乗ってきたソ連軍の歩兵が塹壕に至り、ドイツ兵との間で残酷な戦闘が繰り広げられた。ある者は戦車に轢き殺され、ある者は下半身を砲弾に吹き飛ばされたショックで死に、そしてある者は、銃弾に斃れた。
 結局、この戦闘は経験と訓練に勝るドイツ兵の勝利に終わったが、生き残った者は少なかった。しかも、直後にあてがわれた仕事は、ウィッツランド少尉たちが可愛がってきた、部隊のマスコットであるロシア人少年の銃殺だった…。

 



 包囲されたストレスと、慢性的な飢餓、そして、自軍の理不尽ぶりに愛想をつかしたライザー伍長は、ウィッツランド少尉、新兵のギギとともに傷病兵をよそおって(もう遠目にも、すでに健康な人間には見えないのだが…)、母国へと帰してくれる輸送機に乗り込もうとするのだが…。
 ここから先のウィッツランド少尉たちの運命、および、映画のディテールについては、本作を見ていただこう。

 結局、ドイツ第6軍の救出はあきらめられ、コーカサス地方の侵攻を担当していたA軍集団の撤退のために「捨て石」にされることとなった。つまり「包囲されることによって、敵兵力を引きつけておいてほしい」ということだ。自軍に見捨てられた包囲地帯はドイツ兵たちによって「大釜=Die Kessel」と呼ばれた。「釜」の中では飢餓とストレス、そして、マイナス30℃以下の寒気が兵士たちを苛んだ。それでも包囲環の中の兵士たちは死に物狂いで戦うが、補給線を断たれた彼らの運命は決まっている。翌1943年1月31日にパウルス司令官と幕僚たちが降伏し、2月2日にドイツ第6軍の最後の部隊が降伏した。ソ連軍の包囲環の中に閉じ込められた将兵の数は約30万名。このうち、2万5000名の傷病兵が空軍の輸送機によって包囲環の外へと救出された。そして、1943年1月に降伏した時の包囲環の中の将兵の数は約9万6000人。彼らは、即座に捕虜収容所へと歩いて連行された。その後、1950年代に故郷へと帰ることができた兵士の数は、僅か6千名である。なお、このスターリングラード攻囲戦を通じてのドイツ軍およびルーマニア軍等から成る枢軸軍の死傷者は、約85万人にのぼった。

 一方、勝利したソ連軍は、ウォッカとソーセージで文字通りに「勝利に酔いしれた」。というのもソ連軍は、1941年の夏至に始まった独ソ戦=大祖国戦争において基本的に「負け続け」ており、そのような中で大勝利をおさめたためだ。とある兵士に至っては「ベルリン陥落の時よりも、うれしかった」と述べたほどである。この戦いは独ソ戦のターニング・ポイント(転換点)となり、ソ連軍は以後の戦いを有利にすすめていくことになる。とはいえ、ソ連軍の死傷数も約120万人にのぼった。
 

 最後に、スターリングラード市民が受けた被害について記しておこう。両軍による戦闘、特にドイツ空軍による爆撃によって、街は「瓦礫の山」へと変えられた。また、戦闘開始以前のスターリングラード市の人口は、約60万人であった。しかし、この数は苛烈な戦闘とともに激減していき、戦闘終結時の人口は9,796人であった。なお、約20万名の民間人/市民が戦闘のさなかに命を落とし、戦後の復興には長い時間を要した。1961年にフルシチョフによるスターリン批判のもと、街の名前がスターリングラードから「ヴォルガ河の街」を意味するヴォルゴグラードへと変えられた。
 なお、2001年版の映画『スターリングラード』の冒頭の狙撃シーンにおいて、手をつないで遊ぶ子どもたちの銅像が出てくるが、この銅像は「子供達のホロヴォート」と名付けられ、「スターリングラード1」駅の駅前広場に設置されていた。

◆「バルマレイの泉」wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B3%89

 この銅像は戦闘のさなかに、ところどころを鉄片や銃弾に抉られながらも「大人たち」の愚行の証人であり続けてきた。だからこそ筆者を含む、スターリングラードの戦いを知ろうとする者の心を揺さぶり続けてきたのだろう。この銅像は、1951年に一度は撤去された。しかし、2013年夏にこの銅像は数を2体に増やして、再びヴォルゴグラード市内に設置された。
 現在のスターリングラード=ヴォルゴグラード市も、都市開発等によって戦闘の痕跡は、少数のモニュメントを除けば、少しずつ消えつつあるそうである。都会や大都市に住んだことのある者なら誰でも知る通り 、街はごく短期間でその姿を変えていく…。
 おそらくロシア人たちは、過酷極まる戦争の記憶を風化させまいと、「あの戦闘/愚行」の数少ない証人として「子どもたちに、再び手をつないで踊ってもらう」ことにしたのだろう。
 
 子孫たちが愚行を繰り返さないように…。

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