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2018年06月22日14:28

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広島原爆ダークツーリズム_3〜広島市立商業・造船工業学校慰霊碑

広島市立商業・造船工業学校慰霊碑

建立年月日
1963年8月6日

所在地
中区中島町1番(本川河岸、国際 会議場南西)

碑文
青天の霹靂とはまさにこのことであった 
昭和20年8月6日午前8時15分 われらの郷土広島は 
ただ の1発の原子爆弾によって この世ながらの地獄を現出し 一瞬にして壊滅した 
われらが母校広島 市商は 当時造船工業に転換を余儀なくされていたのであるが 
当日学徒動員市内建物疎開作業に 出勤中の生徒270名付添職員3名もまた 全滅の悲運に遭った 
われらは年少の諸君の清純熱烈な 愛国の至情に想いを致し 可憐悲痛全くいうべき言葉を知らない 
われらここに殉難生徒職員各位の 諸霊の冥福を祈り かくの如き悲劇の再び人間の手によってくり返さしめざることを誓うとともに 
併せ て今次大戦を通じて戦列に参加し奮戦苦闘武運拙くも散華して護国の鬼と化した多数の旧市商同窓 生各位の英霊をも弔うべくこの碑を建立し 
われらの微衷を永く後世に伝えんとするものである 
昭和 38年8月6日 
広島市商同窓会・造船学校遺族 
広島市商業学校長 田中浩造 撰文(横の石碑)

建立者
広島市商同窓会・造船工業学校遺族会

建立経緯・来歴等
広島市立商業学校は、戦争末期に市立造船工業学校になったが、戦後、広島立商業高等学校として再発足した。
1年生がこの付近の建物疎開作業に出動して いて被爆し、全滅した。
碑の背面には、市商戦没者125人に加え、原爆犠牲者とし て教師7人、生徒260人の名前が刻まれている。

小熊談
広島市立商業・造船工業学校の証言を探してみたのですが、何一つ出てきませんでした。
調べてみた所、被爆時の状況が以下のとおり分かりました。

被爆当時、碑のある場所の近くで建物疎開作業に出ていた1年生と職員200人のほとんどが死亡。
爆心地から約500メートルと非常に近く、遺骨などもほとんどなく、弁当箱や衣類などが残っているだけだった。
他の動員先で犠牲になった人を含め、270人以上が亡くなった・・・と。

・・・証言が無いのは・・・碑文にかかれていた「全滅」の言葉通り、現場での生還者はいなかったと思われる。
確かに慰霊碑の場所は平和公園の目の前、爆心地から至近距離であるのは僕も碑から見て分かっていたのだが・・・。

改めて、残酷な事実を突き付けられたように感じ、言葉を失ってしまいました。

先生と子供達に合掌。


訪問時期
2016年8月6日


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