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2018年06月21日14:19

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広島原爆ダークツーリズム_2〜広島県立第二中学校慰霊碑

広島県立第二中学校慰霊碑

建立年月日
1961年8月6日
所在地
中区中島町1番(本川河岸、国際 会議場西)

碑文、追悼歌
戦災並に原爆にて死没された元広島二中職員生徒352名のなつかしい名簿を此の碑の背面に記し永 久の思ひ出と慰霊のよすがと致したいと思ひます 昭和36年8月6日遺族一同(碑) なぐさめの言葉しらねばただ泣かむ 汝がおもかげといさをしのびて 元県立広島二中校長 古田貞 衛(横の追悼歌碑正面) 嗚呼 昭和20年8月6日学徒動員作業中戦災並に原爆により教官7名生徒343名平和の礎となる 昭 和28年8月6日 広島県立第二中学校遺族一同建之(横の追悼歌碑背面)

建立者
県立二中遺族一同

建立経緯・来歴等
広島県立広島第二中学校(現在の広島観音高等学校)1年生は、建物疎開作業現場のこの地で被爆し、全滅した。
碑の背面には、教師7人、生徒343人、事務員1人 の351人の犠牲者の名前が刻まれている。


では広島二中生徒の貴重な証言をご紹介致します。
男性 直接被爆・距離1km 被爆時13歳

ヒロシマで生き残った者には死者に対するうしろめたさのようなものがあります。
車に乗 っていても歩いていても、街角のそこかしこでふっとあの日の地獄絵がよみがえってくる からです。
あの日、たった一日違いで私たちの身代わりとなって爆死した一年生三百二十 二人のことを憶うとき、死ぬはずだった命を永らえているのではといううしろめたさから のがれることはできません。
旧制広島二中の原爆慰霊碑は平和公園の西よりの本川べりに あります。
慰霊碑の立つ河岸一帯は「あの日」の24時間前、私たち二年生が建物疎開作業 に出動していた現場でもあります。
「あの日」が「五日」でも「七日」でも間違いなく私た ち三百余人の名が石に刻まれるはずでした。
偶然としか言いようのない勤労作業の割り振 りが、そのまま私たちの生と死を分けたのです。
生き残ったものとして運命の気まぐれとい うにはあまりにも重い心の枷です。

受難の地は爆心から約四百メートル、ほとんど即死に近い状態の中で瀕死の篤村先生は「泳 げる者は川を渡れ、泳げぬ者は君が代を歌って立派に死ね」と訓示したといいます。」川を 渡ろうとして飛び込んだ生徒は丸木につかまって「君が代」や「海ゆかば」を歌いながら 命を引き取った生徒もいると聞いております。
「あの日」私達二年生もまた広島駅裏の東練兵 場で被爆、全員が火傷をしたのですが被爆体験については沈黙を守ってきました。
身代 わりの一年生の死が余りに悲惨で地獄のような体験を忘れたい思いが強かったかもしれま せん。
そんな私たちも古稀も過ぎるという人生の節目を迎え、それぞれの自分史を回想するにつれ 戦中、戦後の歴史価値観の変化はともかく、戦時下の中学生として一つの時代をともに生 き、人類史上初めての原爆を体験した仲間として「あの日」を証言することは、ヒロシマの死 者に対する生き残ったものの務めという思いがするからです。
原子爆弾が落ちたとき、広島 にどんな悲惨なことが起こったか、そして戦争のない平和な世界がどんな大切なものかを 多くの人に考えてほしいものです。
おわりに原爆の犠牲になられた恩師、同窓生のみ霊とヒロシマの死者のご冥福をお祈り いたします。
(2005年)

貴重な証言ありがとうございました。

勤労動員、学徒動員の広島での悲劇は至る所で繰り広げられたのです・・・。


訪問年月日
2016年8月6日

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