随分と経ってしまいましたが、4月の21日に群馬県の箕輪城に行ってきました。
箕輪城は1550年代初期に地元の有力国衆の長野氏によって築城されたとされていて、日本100名城にも認定されています。
交通の要所である現高崎市の北部に位置するだけあって、舌状大地を大規模かつ技巧的なな堀で遮断しているところは、さすが100名城に選ばれるだけのことはあります。
今回は一番整備されている搦手口の駐車場に車を停めて入山しましたが、ちょっと残念だったのは、こちら側の整備だけが進んでいることです。
箕輪城では有名な、二の丸入口にある郭馬出。
ここには2016年に虎口門が復元されています。
馬出の周囲も、このような復元土塁で覆われています。
その奥にある本丸も周囲の土塁が復元されていました。
発掘調査によって土類があった事は間違いないのでしょうが、ここまで綺麗に復元する必要があるのか正直疑問です。
上記したように搦手口側から本丸までの復元を(観光を意識して)優先していて、反対側の蔵屋敷曲輪や通仲曲輪はほとんど整備されておらず、藪漕ぎをしないと見学できない状態で、このあたりをもっと改善してほしいなと思いました。
大手口にある大堀切にも、このように階段が整備されてしまっています。
鍛冶曲輪の石垣は綺麗に残っています。
この城の石垣は防御力を高めるためではなく、土留めやスペース確保のためのものが多いように感じました。
地質学まで勉強すれば理解できるのでしょうが(←無理言うな)、堀の中にも石を積んで「堰」を作っている場所を何箇所か見かけたので、雨によって土砂が流れてしまうような事があったのかもしれません。
大堀切を登ってきて、最初に書いた郭馬出と二の丸繋ぐ土橋部分を下から撮影。
ここにも土留と思われる石積みがあります。
城域の南部に当たる「木俣」と呼ばれる曲輪部分からの高崎市街地方面の景色。
当時の高崎市街地には、長野氏とは親戚関係にある和田氏の造った和田城があり、丁度碓氷峠を越えて信濃国(長野県)から上野国(群馬県)に侵入するルートを挟み込むような位置関係にあります。
長野氏も和田氏も関東管領であった山内上杉氏に従属した国衆で、武田信玄と何度も死闘を繰り広げた事で有名です。
長野氏は最後まで上杉氏に仕え武田信玄によって滅ぼされてしまいましたが、和田氏は長野氏滅亡後に武田氏に服従し、その後織田信長の家臣である滝川氏に仕え、織田信長が死亡すると北条氏直に仕え・・・と、戦国時代の豪族を絵に描いたような歴史を歩むことになります。
豪快かつ技巧的な空堀と歴史的価値を考えれば、100名城に認定されるのも納得の城跡ですが、如何せん復元の方法には疑問を感じます。
何というか、表向きの姿しか考えていない整備なんですよね。
綺麗な櫓門や土塁を整備するなら、もっと他の曲輪も見学しやすいように整備して欲しいものです。
・・・うん、こんな感じかな?(苦笑)
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