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2018年05月04日06:54

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18940811 NO2400 8月5日凱旋以後の清軍の逃亡路

18940811 NO2400 8月5日凱旋以後の清軍の逃亡路
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駐韓日本公使館記録 5巻 参. 諸方機密公信往 参 (1) 旅団凱旋後の景況
文書題目 (1) 旅団凱旋後の景況
文書番号 機密 第一六○号 本八九
発信日 明治二十七年八月十一日 ( 1894年 08月 11日 )
発信者 特命全権公使 大鳥圭介
受信者 外務大臣 陸奧宗光

(1) 旅団凱旋後の景況
機密第一六○号 本八九
本月五日旅団凱旋ノ際ハ国王ヨリ内務督弁兼軍国機務処議員李允用氏ヲ慰問使トシテ南大門外凡二十町計ノ処ニ設ケタル凱旋門迄差遣セラレ内務協弁兼議員鄭敬源氏ハ機務処議員総代トシテ同処ニ出迎ヒ凱旋式終リ旅団長慰労後同日午後四時半国王ニハ本官ならびに旅団長ニ内謁見被仰付候旨御沙汰有之候同五時ヨリ光化門外親軍壮衛営ノ大庁ニ於テ宴会ヲ開キ旅団長外将校凡二百名ヲ招待セラレ本官及本館員モ其庁ニ相連リ申候翌六日本官ハ公使館ノ近地ナル俗称和城ニ夜会ヲ開キ旅団長外諸将校ノ二百名ト朝鮮官員参十余名ヲ相招キ申候然ルニ其前清兵陸路ヨリ平安道ニ来ルベシトノ風說続続有之未タ確報ニハ相接シ不申候得共臨津江ニ既屯セル一中隊ノ外翌八日未明更ニ京城ヨリ二中隊ヲ発セラレ陸路平壤ニ向テ進軍致候処同夕刻ニ至リ清兵一千五百程平壤ニ到着シタル旨ノ報告ニ相接候之ガ為メ同地ノ韓民大ニ力ヲ得テ本邦人ニ対シ敵愾ノ気ヲ強メタル旨風聞有之候将又牙山県館ノ清兵ハ一時公州雙樹山城ニ立籠タリトノ報知アリシガ其後走路ヲ燕岐松山清風ニ取リ江原道ノ原州ニ入リ北方ヲ指シテ遁ケントスルニ付既ニ春川洪原等ヘハ通行ノ先觸レ達セシ旨該地二名ノ官民ヨリ追追報告有之与致承知候
又右ニ付去七八日頃忠州ノ南約ネ四里程ノ処ヲ同兵参十若クハ四十位ツヽ群ヲ成シテ通過シタル旨電信架設ノ為メ同地方出張ノ馬場少佐ヨリ電報有之候左スレバ同兵ハ二参日ニ涉リ追々ニ通行シタルモノト被推測候右清兵通過ノ日取リヨリ推シテ考フルトキ或ハ洪原邊ニ於テ我兵即本月六日元山上陸陸路入京ノ一大隊ト衝突スル都合ニ立至ルヤモ難計ト存候猶ホ委細ハ旅団長ヨリ其筋ヘ報告可有之ト存候ヘ共為念槪略及具報候也
明治二十七年八月十一日
特命全権公使 大鳥圭介
外務大臣 陸奧宗光 殿




(*私訳)
(1) 旅団凱旋後の景況

機密第一六○号 本八九
本月五日旅団凱旋の際は朝鮮国王より内務督弁兼軍国機務処議員李允用(イユンヨン)氏を慰問使として南大門外およそ二十町ばかりのところに設置した凱旋門まで派遣され、内務協弁兼議員鄭敬源氏は機務処議員総代として同処に出迎え、凱旋式が終り旅団長慰労後の同日午後四時半、国王は本官ならびに旅団長に内謁見を仰せつけられたとの御沙汰がありました。同五時より光化門外親軍壮衛営の大庁において宴会を開き、旅団長ほか将校およそ二百名を招待され、本官及び本館員もその庁に同席致しました。翌六日、本官は公使館に近い俗称「和城」に夜会を開き、旅団長ほか諸将校の二百名と朝鮮官員三十余名を招きました。
ところがその直前に清兵が陸路より平安道に来るらしいとの風說が引き続き伝えられ、まだ確報には接しておりませんが、臨津江(イムジンガン)にすでに駐屯していた我が軍の中隊のほか、翌八日未明には更に京城から二中隊を向かわせられ、陸路平壤に向かって進軍致しましたところ、同夕刻に至って清兵一千五百程が平壤に到着しているとの報告に接しました。このため同地の韓民は大いに力を得て日本人に対し敵愾心を強めているとの風聞があります。
また牙山(アサン)県館の清兵は、一時公州(コンジュ)双樹山城(サンスサンソン)に籠城しているとの報知があったが、その後退却路を燕岐(ヨンギ)、松山(ソンサン)、清風(チョンプン)にとり、北上して江原(カンウオン)道の原州(ウオンジュ)に入り北方を指して逃げようとしているので、既に春川(チュンチョン)、洪原(ホンウオン)等へは清軍通行の予報を通達したと当地の二名の官民から次々と報告があり関知しました。
またこれについて去る八月七、八日頃、忠州(チュンジュ)の南、約四里ほどの所を清兵三十あるいは四十くらいずつ群を成して通過していると、電信架設のため同地方出張の馬場少佐より電報がありました。そうすると同清兵は二、三日にわたって次々に通行しているものと推察されます。
この清兵通過の日取りから推察して考えると、あるいは洪原*(ホンウオン)で我が兵、即ち本月六日に元山に上陸し陸路入京中の一大隊と衝突する事態に立ち至るかも知れないと考えます。
なお委細は旅団長からその筋へ報告があると存じますが念のために槪略を御報告します。

明治二十七年八月十一日
特命全権公使 大鳥圭介(*発信)
外務大臣 陸奧宗光 殿




*8月5日旅団凱旋
7月24日、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた[51]。混成第九旅団長大島義昌陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、山砲8門。なお従軍記者14社14人[* 28])。
日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの成歓駅周辺に、聶士成率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の公州に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、松崎直臣陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた[52]。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。」
*双樹山城 熊津城(ウンジンジョウ)に同じ。「百済当時には웅진성(熊津城)と呼ばれていたが、高麗時代以後は공산성(公山城)と呼ばれ、朝鮮王朝以後は쌍수산성(双樹山城)と呼ばれた。」 公州・公山城 http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0004450
*燕岐 現・世宗特別自治市の中心が燕岐郡 「2012年7月1日 - 忠清南道燕岐郡 鳥致院邑・燕東面・燕西面・燕岐面・錦南面・全東面・全義面・小井面などを世宗特別自治市に改編。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B8%82
*松山 現・忠清北道曽坪郡曽坪邑松山里 
*洪原(ホンウオン) 朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道に属する洪原郡にある。現・元山(ウオンサン)の北部海岸にある。












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