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2018年04月06日14:59

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ひさしぶりに時事ネタ(ゴンドラの歌)

相撲。大相撲。東海大相撲。←相模です

こどものころ、相撲はメジャーだった。大鵬柏戸、北の富士。
システム的に仲間と相撲をとっていた。私はいつも、大麒麟であった。
大麒麟関とは何の関係もないが、自分の技は、まず下手をとって小外がり。すなはち相手の左足に己の右足を絡め持ち上げて左足1本で立ち、柔軟にして粘っこい腰を活かし下手に転がす。そんなのが得意であった。先代貴乃花が出てきたころ。北の湖は後年。

最後に好きだったのが魁傑で、若島津も応援してはいたが、ジャイアンツ的なディープインパクト的な、いわゆる
「猫も杓子も、エブリバディが強いものを人気あるものを応援する」
てな風潮が大嫌いな自分は、”若貴ブーム”の頃にはまったく相撲を見なくなった。
*語弊あるから反論あろうが、これは東京(決して江戸ではない)の”ちょと人気すれば、すぐ並ぶ”風潮に通底するのではないか。

博打したり「可愛がっ」たり、話題はここ数年、引きも切らない。そんな相撲界である。
例のモンゴル産の・・・なんといったかな。日馬富士か。彼の暴行事件と相撲協会の対応、それに叛する貴花田(*)の乱。
そして、いま流行りの”ブーメラン”。で、女人土俵入り問題。
*自分は彼を「貴乃花」とは知らない。先代が貴乃花なので、彼は貴花田でしょ? 何につけても

自分の意見は協会寄りでも貴花田寄りでもない。前述のとおりそもそも、斯界にもはや興味がないので。高みの見物を決め込むのみ。
が、ヤクザ研究を続けている者に言わせてもらえば、博打でも暴力でも、アッタリマエなのである。あそこじゃ。

良し悪しを言ってるんじゃない。歴史的に、相撲界とはそんなもんだと言うのだ。

清水次郎長に世話になりながら裏切った保下田九六(ほげたのきゅうろく)を見るまでもなく、ヤクザと相撲は一心同体。
回向院でも田舎の草相撲でも、江戸期からそうなのであるから、いまさらどうこう言うこともない。
いや、あるんだが、それは後述。

体躯おおきく喧嘩が強い。それだけならまだしも、(朝鮮の「火病」じゃないが)精神が世間だの制度だのに収まらない奴は、相撲取りになるかヤクザになるかしかなかったのだ。カタギの商売には向かないもの。
雷電為五郎からして、そう。そして相撲も興行の世界。吉本やバーニング、芸能界と同じく。
なれば・・・わかるでしょ?

もちろん、文部省管轄による日本相撲協会となったからには”近代化”はしているでしょう。多かれ少なかれ。でも、本質は変わらない。これぞ「伝統」なのであって、女人が土俵に上がってはならないなどは、明治以降の後付け。

「北海道教育大学の吉崎祥司氏と稲野一彦氏による論文『相撲における女人禁制の伝統について』には、このようにある。
〈筆者は、明治期に神道の穢れ観を利用して、女人禁制という”伝統”が虚構された、と考える。あるいは、相撲における女人禁制の伝統は、1400年の歴史を持つとされる相撲にとっては、非常に歴史の浅い”伝統”であるといったらよかろうか。神道や仏教の女性差別確立までの流れと同様に、相撲も女性を差別する必要があって、その理由付けとして穢れ観などが後付けされたと考えられるのである〉

〈明治時代になって相撲を近代化していく過程で、それまで存在しなかった相撲専用の常設施設を作った。この建物を小説家の江見水陰が<国技館>と名づけたとき、初めて相撲は”国技”と呼ばれるようになったというのである〉
〈しかも、相撲の近代化自体、外からの目線で始まった。相撲好きだった板垣退助が音頭をとって、外国からのお客さんも見るのだから、江戸時代の相撲のままではみっともない、文明開化後の日本にふさわしい姿にしよう、ということで、よそ様に見せても恥ずかしくない形に整えられたのだ〉
つまり、開国にあたって諸外国からの目を気にすることになり、相撲という「芸能」を野蛮なエロ・グロ・ナンセンスの世界から離脱させる必要に迫られた。
 そこで利用されたのが”伝統”という考え方だった。前掲論文『相撲における女人禁制の伝統について』では、女人禁制が広がっていった過程をこのように説明している。

〈男尊女卑の土壌など、いかに女人禁制が受け入れられやすい風潮があったとしても、女相撲を禁止するためには、人々を納得させられるだけの(あるいは屈服せざるをえない)明確な理由が必要であっただろう。そこで相撲界は、「神道との関わり」という錦の御旗を掲げたのではなかろうか。穢れ思想により女性を差別する、ということは人々に広く知れ渡っていたはずである〉

ー リテラより引用 −

ん? リテラはいかがわしいって?
そんなことはないですよ。ときどき明後日に行っちゃうけど(笑)

ためしに、江戸学の祖たる三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ、明治3年3月17日 - 昭和27年5月14日)の
『侠客と角力 』(ちくま学芸文庫)
を読んでご覧なさい。

で、

今朝あるテレビ番組を見ていたら長嶋一茂が、女性の土俵立ち入り禁止問題について、次のようにコメントしていた。
「(舞鶴市長が倒れ、女性たちが救命措置したのちに協会の人々が塩を撒いたのは)女性が穢れている、ってことじゃないでしょ」

一茂君。残念!
あなたや俺は「女性が穢れている」なんてまったく思わないけれど、神事神道においては、そういう”穢れ”の思想があるのよ。
具体的にいうと月経、月のものの「血」な。これ(だけじゃないけど)を”穢れ”と見なす。我が故郷の博多祇園山笠、追い山には女性は決して参加できません。これも同じ。

「病気や事故、忌むべきことを祓うために、塩を撒いた」なるは相撲協会の弁。しかり。ただ、女性=穢れという思想も確かに、ある。

そろそろ伏線(?)を回収しよう。
相撲における「女性=穢れ」論の良し悪しは問わない(人命救助においては、もちろん言うまでもない)。
ただ、暴力団排除条例や改正暴対法・・・禁煙条例もまた、ある意味そうだが、時代は変わったのだ。俺たちん時はそうじゃなかった、などと言っても仕方がないのだ。

いかなヤクザ系といえども、どうしようもない。本尊のヤクザ自体が、変化を要求されているじゃないか。
「昔は良かった」。うむ、俺もそう思う。生まれ育った福岡じゃ指のない人にケツ叩かれて(いまでいう、ガチ暴力ですわな)、ちっとは根性すわったし。10数年前の宝塚にゃ道々置かれていた、例のカラーのゴミ箱の上部は、必ず灰皿だったし。

でも、世の中は変わったのである。
そこでどう生きていくかが、相撲の人たちにも俺らにも、求められておる。否が応でも。

加えていうなら自民党保守派みたく、「女は家で子育てしてろ」「日本には女性差別なんかない」なんて喚いても無駄どころか逆に罪悪になり得る。
だって実態は・・・専業主婦なんていまや特権階級じゃないスか。だって共働きじゃなきゃ食っていかれないんだもん。
*しかも、モリトモだか防衛省だか働き方改革だか、ベースたる「記録=文書=事実」がめちゃくちゃだし。そこに、こともあろうか(ジミンの新憲法草案にあるとおりの)間違った”伝統”を尺にすりゃ、議論がハチャメチャになるのは当然。

そこんとこをちゃんと押さえたうえでの処し方。ものの見方、在り方であれかし。
相撲界も自民も、そして私も。たゆたいつつも。

◆黒澤明 『生きる』より、ゴンドラの歌。命短し、恋せよ乙女。



【追記】
そして神社仏閣の隣には、なぜかどこでも風俗街があるのだった。や、批判じゃなくて、論を深堀するための覚書。

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