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2018年03月27日13:01

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ベートーヴェンの命日に−−短編小説『エリーゼのために」

(短編小説『エリーゼのために」全文)



                        エリーゼのために


                             1


 私の家には、小さな宝物が有った。それは、小さな古いオルゴールである。そのオルゴール は、昔、遠い国からやって来た。そして、永い間開けられる事も無く、戸棚の奥でひっそりと眠って居たのである。その古いオルゴールを、今日、私は、開ける事にした。それは、今日が特別の日だからである。

                             2


 「開けるよ。」と、私は言った。娘は、小さくうなずいた。私は、娘の前で、オルゴールのねじを巻き、その蓋を開けた。すると、その古い木の箱の中から、あの物悲しい旋律が、永い眠りから目覚めた様に、静かに、ゆっくりと、流れ始めたのだった。そして、その物悲しい旋律とともに、蓋を開けられたそのオルゴールの舞台の上で、世界一小さなバレリーナが、私と娘の前で、ゆっくりと回り始めたのだった。
 娘は、何も言わなかった。そして、無言のまま、私の隣りで、その小さなオルゴールの人形を見つめて居た。その娘の前で、その娘の小指ほどの小さなバレリーナは、その古い箱から流れる悲しい旋律に合わせて、ゆっくりと回り続けるのだった。
 このオルゴールは、今、永い時を経て、私と私の娘の前で、眠りから目覚めたのだった。そして、この小さなバレリーナは、今日、初めて、私の娘の前に姿を見せたのであった。
 娘は、魔法を見る様な眼で、その人形を見つめて居た。

       
                             3


 今日は、娘の三歳の誕生日であった。私は、以前、娘にそのオルゴールの話をした事が有った。すると、娘は、それを見たいと言った。そこで、私は、娘の誕生日に、そのオルゴールを見せる約束をしたのであった。そして、今日、その約束通り、私は、そのオルゴールを家の奥から取り出し、娘の前で開けたのであった。
 その私の娘の前で、小さなバレリーナの人形は、静かに、ゆっくりと回り続けた。−−そのオルゴールから流れる悲しげな旋律に合はせて。
 このバレリーナは、この箱の中で、永い間、この時を待ち続けて居たのである。
 この古い木の箱の中で、娘の前で踊る日を静かに待ち続けて居たのである。そして、今、永い時を経て、この悲しげな旋律に合わせて、ここで、再び踊り始めたのであった。と、不意に、その旋律は止まった。同時に、その小さなバレリーナの踊りも、不意に止まった。まるで、時間が止まった様に、オルゴールは、止まったのであった。
 私と娘が居る部屋は、深い静寂に包まれた。娘は、何も言わなかった。静寂の中で、私は、その何も言はない娘の横顔を見つめた。そして、娘が、何かを言ふのを待った。だが、娘は、何も言おうとしなかった。
 やがて、その沈黙の後、娘は、私の顔は見ないまま、小さな声で、こう言ったのだった。
 「もう一度。」
 私は、微笑んだ。そして、「いいよ。」と言って、オルゴールを手に取ると、もう一度、そのねじを巻き、娘の前に置いた。すると、その古いオルゴールは、再びその旋律を奏で始め、小さなバレリーナは、再び、踊り始めたのだった。
 娘は、その踊りを見つめ続けた。


                             4


 そのオルゴールは、私の母の持ち物だった。私は、子供の頃、母が、私にこのオルゴールを見せた日の事を覚えている。
 その日、母は、テーブルの上に、このオルゴールを置いた。そして、初めてそのオルゴールを目にした私の前で、何も言わずに、その蓋を開けた。すると、この物悲しい旋律が静かに流れ始め、その旋律に乗って、この小さなバレリーナが、その箱の上で、ゆっくりと回り始めたのだった。−−今日と同じ様に。
 その遠い日の光景を、私は、確かに覚えて居た。
 私は、ゆっくりと回転する、この小さな人形に心を奪われた。母も、私の横で、何も言はずに、そのゆっくりと回る小さな人形を見つめて居た。それは、まるで、夢の中に居る様な、不思議な時間であった。その指先ほどの小さな人形は、静かに、ゆっくりと回り続けた。そして、その悲しげな旋律が不意に途絶えた時、人形は、その旋律と共に、静かに止まったのであった。人形が止まると、後には、静寂だけが残った。そして、母は、なおも、無言であった。
 母は、何も言はずに、もう一度ねじを巻いた。そして、私の前で、もう一度、オルゴールにその旋律を奏でさせた。すると、小さなバレリーナは、再び、その旋律に合わせて、私の前で、ゆっくりと回り始めるのであった。
 その旋律は、美しく、悲しかった。私には、その旋律は、この世で一番美しい音楽である様に思へた。そして、その旋律と共に、時間が流れ、去る事を、子供心に、悲しいと感じたのだった。


                             5


 そのオルゴールの調べは、余りに美しかった。そして、その調べが流れる時間は、余りに美しかった。初めて、このオルゴールの調べを聴いたその日、私は、その美しい時間がやがて失われる事を思って、ひどく悲しく思ったのだった。   
 子供で はあったが、私は、時が流れる事の悲しさを、その旋律が流れる中で、感じ、知ったのであった。
 それが、私が、初めてこのオルゴールを見た日の記憶であった。その日から、もう、二十年以上の時が経っていた。今日、このオルゴールを開ける時、私は、あの日、自分が感じたその悲しい感情を思ひ出していた。そして、あの日、自分が、どうして、そんなに悲しい気持ちに成ったのかと、考へたのだった。私には、その遠い日の自分の感情が、一つの謎の様に思われたのである。あの時、何故、私は、この調べに、そんな深い悲しみの気持ちを抱いたのだろうか?
 そう考える私の前で、娘は、オルゴールを見つめて居た。


                             6


 「お父さん。」と、娘が言った。娘は、私を見めて居た。
「このお歌なあに?」と、娘は、尋ねた。
 娘は、「歌」と言ったのだった。私は、それを「歌」と呼ぶべきか、迷ひながら、娘に答えた。
「エリーゼの為に、と言う曲だよ。」 娘は、考え込んだ。
「エリーゼってだあれ?」と、娘は、尋ねた。 私は、答えに窮した。考えてみれば、私は、その答えを知らないのである。
「昔の人だよ。」と、私は答えた。
「昔の人?]
「そう。遠い昔の人だよ。」
 娘は、何も言わなかった。そこで、私は、もう一度、オルゴールのねじを巻いた。そうなのだった。エリーゼとは、誰なのだろう?私は、今日まで、それを知らなかったのである。
 この調べを最初に聴いたのは、そのエリーゼだったのだろうか?


                            7


 その時、私は、不意に、自分が、その同じ問いを母にして居た事を思い出した。
 母が私にこのオルゴールを見せたあの日、私は、娘と同じ事を、母に尋ねて居たのである。娘が尋ねるまで、私は、その事を忘れて居た。そして、その全く忘れて居た事を、私は、娘に問われて、今、思ひ出したのだった。母は、その時、こう答へたのである。
「お母さんの国の人よ。」
 母のその言葉を、私は、自分の娘に問われて、今、何十年ぶりに思ひ出したのであった。
 この小さなオルゴールは、私の母が、ドイツから、遠い日本に持って来た物であった。母は、このオルゴールと共に、この国に来たのである。そして、それを開けた時、母は、遠い自分の国の事を思ひ出したに違い無いのである。
  私は、娘に、「遠い国の人だよ。」と、言って答へた。すると、娘は、黙ってう なずいた。
「もう一度聴かせて。」と、娘は言った。私は、微笑み、娘に言われた通り、もう一度、そのオルゴールのねじを回した。すると、オルゴールは再びあの調べを奏で始め、小さなバレリーナは、再び、私の娘の前で回り始めたのだった。
 「エリーゼ」と、私は、心の中で、その名をつぶやいた。彼女は、この世で最初に、この調べを聴いた人だったのだろうか?・・・それは、永遠の秘密なのである。そして、その秘密を秘めながら、この古いオルゴールは、今日も、その調べを奏でるのである。

                           
(終)





平成十四年十二月十二日(木)
(西暦2002年)


           

西岡昌紀(にしおかまさのり)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-alacarte/archives/25637401.html





(この小説はフィクションであり、実在する人物、出来事とは関係が有りません。特に、文中の「私」は、作者(西岡)とは全く関係が有りません。本作品の著作権は、著者である西岡に有ります。批評の為の引用は自由ですが、その場合は、仮名使ひを含めて、文章のいかなる変更も、理由を問はず禁じます。本作品の著作権は、著者である私(西岡)に有ります。著者は、この作品の転用を固く禁じます。)


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