mixiユーザー(id:48382454)

2018年03月11日00:49

113 view

3月11日の日記

今日の出来事:1862年−皇女和宮降嫁、1863年−幕末天誅事件:池内大学暗殺、1866年−赤根武人処刑、1869年−久留米藩「明治二年殉難十志士」、1984年−風の谷のナウシカ公開、2011年−東日本大震災

今日は、皇女和宮降嫁です。和宮親子内親王は、仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹です。明治天皇は甥にあたります。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室です。幕府が勅許を得ずに「日米修好通商条約」を調印した事に怒った孝明天皇は譲位を表明し、幕府に攘夷を進めるよう命じる「戊午の密勅」を水戸藩に下しました。これに対して大老・井伊直弼の主導する幕府は、尊王攘夷を唱える志士や大名・公家への弾圧「安政の大獄」を行いました。こうした状況下で、朝幕関係を修復して国論の統一を図る公武合体策の一環として、14代将軍・徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が画策されました。1859年、和宮の熾仁親王への入輿が翌年の冬と内定しました。しかし、宮中では議奏・久我建通らが和宮の降嫁を内議しました。1860年、京都所司代・酒井忠義の使者が橋本邸を3度も訪れるなど、和宮降嫁は水面下で進められていました。そして、幕命を受けた酒井忠義が関白・九条尚忠を通じて朝廷に和宮の将軍家降嫁を出願しました。和宮は宮中へ上がり、縁組を硬く辞退しました。しかし、天皇の譲位の決意と親族への圧力を示唆された和宮は、ついに降嫁を承諾するに事になりました。1861年11月22日、和宮一行は桂御所を出立し、中山道を江戸へと向かいました。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されました。12月16日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入りました。1862年1月10日、和宮は江戸城本丸大奥に入りました。そして、3月11日、和宮と家茂の婚礼が行われました。それまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっていました。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で行われる事となりました。この「和宮降嫁」は日本史上、皇女が武家に降嫁し、関東に下向した唯一の例となりました。

次に、幕末天誅事件:池内大学暗殺です。池内大学は、幕末の儒学者です。1853年、ペリーが浦賀に来航し、親書をもって開国を要請すると、池内大学は「攘夷論」を著して帝都防衛を論じました。池内大学は攘夷派・一橋派として活動しました。梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎などとも交流しました。このため、井伊直弼から危険人物と見なされて「安政の大獄」の容疑者の一人となりましたが、機先を打って井伊直弼に自首したため、中追放という軽い処分で釈放されました。これが尊攘派志士に「幕府に寝返った」と疑われ、狙われる事になりました。池内大学は変名をし、大阪に潜伏していました。1863年3月11日、大阪に来ていた土佐藩主・山内容堂の酒宴に招かれ、時事談義に及びました。深夜3時に籠で帰ると、家の前で待ち伏せした刺客によって斬殺されました。首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に3月13日に三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれました。両公卿は身の危険を感じて辞職する事となります。この刺客は、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵ら4名でした。

その次に、赤根武人処刑です。赤根武人は吉田松陰の「松下村塾」で学びました。1857年、長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となり、梅田雲浜の望南塾に入塾しました。「安政の大獄」に伴い、師・梅田雲浜が逮捕されると赤根武人も逮捕されましたが、釈放されて帰郷しました。その後、吉田松陰らに相談し、江戸で梅田雲浜の救出を試みましたが失敗し、藩から謹慎処分を受けました。1862年、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行いました。「御楯組」に加盟し、高杉晋作・伊藤博文・久坂玄瑞・井上馨らと共に「英国公使館焼き討ち事件」に加わりました。1863年の「下関戦争」に参加、奇兵隊の第3代総督に就任しました。1864年9月の「第一次長州征伐」後、赤根武人は藩内の融和を図りましたが、藩政を主導していた「俗論派」と「正義派」諸隊の調停を行った事が二重スパイとして疑われました。更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行う事を危ぶんだ赤根武人は、これに反対して高杉と対立しました。1865年1月、高杉晋作による「功山寺決起」が成功すると藩内での立場を失い、出奔しました。その後、幕府に捕縛されましたが、幕府大目付・永井尚志や新選組参謀・伊東甲子太郎らは、長州藩の鎮撫工作に利用しようとしました。赤根武人は放免され、長州尋問のために下向する永井尚志の随員となりました。これが、更に疑われる原因となりました。幕府による「長州征伐」から藩を救おうと考えた赤根武人は、広島から長州に潜入すると、かつての同志らと接触しました。しかし、裏切り者とされていた赤根武人の言は全く受け入れられず、工作は成功しませんでした。そして、生誕地である柱島に潜伏していたところを、長州藩士・槇村半九郎に捕縛されました。赤根武人は弁明を望みましたが、取調べは一切行われずに1866年3月11日、山口の鍔石で処刑されました。享年29でした。

その次の次に、久留米藩「明治二年殉難十志士」です。久留米藩主・有馬頼咸の治世は、「廃藩置県」まで26年間続きましたが、この間は藩政を巡って家臣団の抗争が絶えず、幕末という情勢の下で尊王・佐幕と結びついて激しく対立しました。第十代藩主・有馬頼永によって登用された「天保学連」は、有馬監物(昌長)ら門閥派との対立に加え、「天保学連」の後継問題から分裂しました。真木保臣(和泉)ら「外同志」は尊王攘夷を主張し、村上守太郎(量弘)ら「内同志」は公武合体を主張するなど、抗争を繰り広げました。有馬頼咸は、将軍・徳川家慶の養女・精姫を正室に迎えるため、婚儀・御殿新築に巨額の資金供出を行ったため、財政難に拍車が掛かりました。1850年7月22日、江戸藩邸で主君に奢侈を薦めたとして、村上守太郎が参政・馬淵貢(外同志)に刃傷に及びました。村上守太郎は、居合わせた他の家老によって斬殺されました。1851年5月29日、初めて久留米に入部した有馬頼咸に対して「外同志」は藩政改革を提言しましたが、聞き入れられませんでした。翌1852年(嘉永3年)には「外同志」の家老脇・稲次因幡が、有馬頼咸に対して「内同志」の有馬監物・有馬豊前・不破孫市が、弟の富之丞を主君に擁立する陰謀があると申し立てました。有馬頼咸は三人を捕縛・閉門処分を下しましたが、陰謀の証拠は発見されず、稲次因幡による讒言であると判断されました。稲次因幡、真木保臣、水野丹後(正名)・木村三郎らが三人の失脚を狙っての謀計と判決され、多くの者が処罰されました。尊王攘夷派は失脚し、稲次因幡は改易(後に自刃)、真木保臣、水野丹後(正名)・木村三郎が終身禁錮など総計15人が処分を言い渡されました。これが「嘉永の大獄」です。久留米藩政は、門閥の有馬監物や、村上守太郎の流れを汲む不破美作、今井栄らの佐幕派によって動かされる事になりました。しかし、1862年に真木保臣ら尊王攘夷派は蟄居先を脱走しました。1863年に志士らは捕えられ、処刑が行われようとするところ、長州藩や中山忠光らの交渉によって赦免されました。真木保臣らは京都に活動の中心を移し、「天誅組の変」、「禁門の変」に関わる事になります。その後、「大政奉還」後に尊王攘夷派が勢力を盛り返します。1868年2月19日に、参政・不破美作が小河真文ら24人の尊王攘夷派に暗殺され、京都にいた水野正名が御用席詰に登用されて参政となりました。水野正名を首班とする尊王攘夷派の藩政府が成立し、いままで長年藩政を執ってきた公武合体開港派はすべて退けられました。これに伴って佐幕派が捕えられました。有馬監物は退隠、永蟄居、今井栄以下11人は永揚屋入りとなり、総計32人が処罰されました。1868年5月10日には、不破と共に藩政の中心にいた吉村武兵衛が切腹に追い込まれました。その後、「戊辰戦争」で久留米藩は「応変隊」を組織しました。新政府軍の一翼を担った久留米藩の中心部隊・有馬蔵人を総督とする隊が、関東や奥州での戦闘で多くの犠牲者を出しながらも「官軍」として数々の「戦果」を挙げて凱旋しました。1869年3月11日、それまで藩内で戦闘に消極的であった主に藩校「明善堂」の教官たちや、かつて不破美作の協力者であった者たち9名(今井栄、喜多村弥六、久徳与十郎、北川旦、松岡伝十郎、石野道衛、本庄仲太、梯譲平、松崎誠蔵)が切腹を命ぜられました。この9人と吉村武兵衛が「明治二年殉難十志士」として顕彰されています。「版籍奉還」により、有馬頼咸は久留米藩知事に任命され、水野正名が大参事となりました。その後、1870年に長州藩で「奇兵隊の反乱(脱退騒動)」を起こして敗れた大楽源太郎が久留米に逃れて来ると、明治政府の「開国和親」に不満を持っていた久留米藩尊王攘夷派政権は庇護しました。大楽源太郎らによるクーデター計画に参加した「二卿事件」を起こしました。このクーデター計画は明治政府に発覚し、東京の久留米藩邸が政府に接収されました。藩知事の有馬頼咸は弾正台の取り調べを受け、謹慎が命じられました。明治政府は巡察使・四条隆謌少将が率いる軍を久留米に派遣し、事態の糾明にあたりました。この結果、水野正名は終身禁錮(後に獄死)、小河真文らは斬首、ほかの有力家臣も失脚に追い込まれます。「久留米藩難事件」です。

そのまた次に、風の谷のナウシカ公開です。宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」が公開されました。1984年度のアニメグランプリ、日本アニメ大賞の作品部門をダブル受賞しました。また、映画雑誌ではベストテンに選出され、新聞のコラムでは「女性原理の主張」や「自然との共生」という視点を賞賛され、アニメの枠を越える評価を受けました。国内外で複数の映画賞を受賞し、アニメーション作家としての宮崎駿の知名度を上げる作品となりました。観客動員は約91万5千人、配給収入は約7.4億円でした。当時のアニメ映画としては大ヒット作品ではありませんでしたが、その後のソフト販売・レンタルでは一般映画に並ぶ売上げを記録しました。この翌年「スタジオ・ジブリ」が創立される事になります。 オリコンランキングでは、1997年発売のVHS版、2003年発売のDVD版、2010年発売のBlu−ray版が各部門1位を獲得し、史上初の同一作品による3部門制覇を成し遂げました。

最後に、東日本大震災です。2011年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した「東北地方太平洋沖地震」は、日本における観測史上最大の規模、マグニチュード 9.0を記録し、宮城県で最大震度7を記録しました。この地震で波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらしました。また、巨大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種ライフラインが寸断されました。そして、福島第一原子力発電所事故を誘発、公衆電話以外の通話が不通になる通信障害、首都圏でも交通網が全滅して約515万人が帰宅困難者になりました。2018年3月9日時点で、震災による死者は15895人・行方不明者は2539人(計18434人)、重軽傷者は6156人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万2699戸、ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上に上っています。また、高齢者を中心に避難所の不衛生や寒さにより、避難所で死亡する者が相次ぎました。震災関連死と認定されたのは、2017年9月末時点での集計で3647人に上っています。復興庁によると、2018年2月13日時点の避難者等の数は7万3000人となっており、避難が長期化しています。政府は震災による被害額を16兆〜25兆円と試算しています。この額は被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵します(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどでした)。また、震災における経済損失額は世界史上最大のものとなりました。その後の電力不足、風評被害など、これらの災害を総称して「東日本大震災」と言います。地震から約1時間後に遡上高14〜15メートルの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、1号機と3号機で炉心溶融(メルトダウン)が発生しました。水素爆発により原子炉建屋が吹き飛び、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展しました(福島第一原子力発電所事故)。このため、原発のある福島県浜通りを中心に、周辺一帯の福島県住民は長期の避難を強いられています。その他に火力発電所等でも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後には計画停電が実施されました。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されました。

今日の誕生日:松平不昧、大隈重信、深田久弥、福井敏雄、北村和夫、梅宮辰夫、周富徳、オスマン・サンコン、松崎悦子(チェリッシュ)、BORO、小宮孝泰(コント赤信号)、織田哲郎、斉藤ルミ子、中井美穂、三木谷浩史、大沢たかお、中村江里子、UA、奥山佳恵、土屋アンナ、白鵬翔、篠田麻里子(元AKB48)、リンリン(元モーニング娘。)、ロードカナロア、トーホウジャッカル、磯野カツオ

今日の記念日:東日本大震災記念日、パンダ発見の日、コラムの日、いのちの日、世界おかあちゃん同盟の日、おうえんの日

今日の「今日訓」:本日は、1751年にイギリスの新聞「ロンドン・アドバイザー・リテラリー・ガゼット」が世界初のコラムの連載を開始した事で「コラムの日」、1869年に中国四川省の民家で伝道中のフランス人神父アルマン・ダヴィドが、白と黒の奇妙なクマの毛皮を見せられました。これが、欧米で「ジャイアントパンダ」が知られるきっかけとなった事で「パンダ発見の日」となりました。パンダの発見は「レッサーパンダ」が先でした。体格の大きい種が新たに発見された事によって、元々「パンダ」と呼ばれていたものが「レッサーパンダ」、大きいほうを「ジャイアントパンダ」と呼び分ける事になりました。その後、後者のほうが有名になったため「パンダ」の名が「ジャイアントパンダ」の略称のように認識される事になりました。
そして、「東日本大震災」から6年「東日本大震災記念日」です。黙祷!、2012年から政府主催の犠牲者追悼行事が行われています。2011年3月11日に発生した「東日本大震災」で、多くの命が失われました。命の尊さを思い、命の大切さを考え、震災で学んだ事を風化させることなく災害に備えようと「いのちの日」となりました。「東日本大震災」で多くの人が「人とのつながり」、「支え合い」の大切さを強く感じました。おかあちゃんが幸せだと家庭も子どもたちも幸せになる、戦争被爆国として「もう核はいらない」と世界中にメッセージを発信し、おかあちゃんたちが行動を起こす日、全ての生きとし生けるものが幸せである事を祈る日として「東日本大震災」にともない、福島第一原子力発電所で事故が発生したこの日を「世界おかあちゃん同盟の日」としました。東日本大震災で多くの人が亡くなった事を忘れずに、今生きている人達が小さな一歩を踏み出そうとするのを愛を持って応援し、人の優しさにあふれる日とするのが目的の「おうえんの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する