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2018年03月05日09:19

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疎開先で母親の友人になった人

3月3日(土)の夕方に、母親関係で立て続けに2本の電話がありました。どちらも長電話だったので、3時間ちかく電話でしゃべり続けることになりました。よく考えてみたら、長電話なんて、ものすごく久しぶりです。

特に印象的だったのは2本目の電話。
母親と年賀状のやり取りをしていた福生在住の人で、どういう関係なのか、この間ずっとわかりませんでした。真相(?)は、疎開先が母親の実家の近くだったという人でした。しかも、それ以降は一度も会ったことがないとか……(@_@。

2月下旬に忌明けの挨拶状を、葬儀に来なかった人にも送ったのですが、それに、母親の生前の写真をコラージュしたA4用紙を同封しました。これを見て、反応してくれる人が何人かいて、福生の人もその一人です。

以下は、電話の概要。

付き合いがあったのは、疎開していた小学校6年の頃だが、学校が違っていたので、共通の友人はいない。母親と2人でよく、ウサギのエサにする草を取りに行ったが、都会(名古屋)育ちの自分にエサに使える草の見分け方などを教えてくれた。

お母さん(ボクから見て祖母)は怖い人だったので、離れに住んでいたお婆さん(ボクから見て曾祖母)の所で過ごすことが多かった。お婆さんはタマという猫を飼っていて、母親も面倒を見ていたが、猫が帰って来ないことがあって、探したこともあった。他の家族のことはよく覚えていないが、お兄さんに東京から来たきれいなお嫁さんがいた。

その後は、音信不通になってしまったが、30〜40年くらい前に母親の家族(兄弟?)と再会することがあって、母親の連絡先を教えてもらった。それ以降は、電話や年賀状でやり取りをするようになったが、一度も会う機会を作れなかった。「福生に住んでいる」と言ったら、「昔行ったことがある」と言っていた。

「息子(または親類?)の見合い相手を探している」と言ったら、姪っ子(?)を紹介してくれたが、一度会っただけで上手くいかなかった(80年代くらいか?)。もし上手くいっていれば、再会する機会が持てたのかもしれない。

何年か前に電話で話した時、新宿だったら会えるかもしれないという話になったが、実現しなかった。「家族と一緒なら新宿まで行けるかもしれない」と言っていた。「会ったとしても、お互い相手の顔がわからないね」とも。

最後に会ったのが小学6年の時なので、送ってもらった写真の母親も初めて見る姿ばかり。それでも懐かしくなって、昔のことをいろいろと思い出している。猫と一緒に写っている写真を見て、お婆さんの離れにいた猫のことも思い出した。

――と、まあ、こんな感じ。

付き合いがあったのが、疎開時の1〜2年で、それ以降は一度も会っていないというのが、妙にドラマチックです。

この人が母親と同年齢かどうかは不明ですが、母親が終戦を迎えたのは10歳の時なので、同年齢なら、出会ったのは戦後になります。ボクの記憶では、母親は「戦時中は東京にいたが、東京大空襲の前に実家に戻った。東京に残った父親(ボクから見て祖父)は大空襲を体験した」と言っていたので、少なくても、昭和20年の東京大空襲よりも後の出来事だと思われます。

「東京から来たお兄さんのお嫁さん」は、ボクも知ってる人ですが、2011年の東日本大震災の1か月くらい前に、82歳くらいで亡くなっています。旦那(お兄さん)の方は、ボクが子供の頃に、40代で脳卒中で亡くなっています。そもそも、この2人が結婚したのは戦後じゃないかと思われるので、この人が母親と知り合ったのも、戦後の可能性が高そうです。

ちなみに、話に出てきたお婆さん(曾祖母)が誰なのかは、わかりません。祖母方なのか祖父方なのかもわかりませんし、どちらだったとしても、名前もわかりません。(^^;;

母親が子供の頃に猫を飼っていたという話は、言われてみれば、昔そんなことを言っていたような記憶があります。名前もタマだったと言っていたかもしれません。いずれにしても、母親の猫好きは、子供の頃からだったんですね。また、「子供の頃、自分が育てたウサギを食べることができなかった」と言っていたこともあります。この時代のウサギは食用だったんですね。

新宿で会うという話も、聞いたことがあるような記憶がありますが、何とも言えません。実は、2010年か11年頃に、新宿で行われた中学校の同窓会に、母親を連れて行ったことがあります。新宿という地名が出たのも、家族と一緒なら、という言葉が出たのも、その時の経験が念頭にあった可能性があります。結局、中学時代の友人に会ったのは、この時が最後になりました。福生の人とも、会わせてあげたかったです。

自宅から新宿に出る場合、霞ヶ関駅で乗り換えれば、乗り換え1回で行けるのですが、今でも霞ヶ関駅に行くと、その時のことを明瞭に思い出します。駅のトイレの位置なども、事前に調べて、連れて行ったので……。帰りの日比谷線内で、マイミクのF埼さんに似た人に座席を譲ってもらったことも……。

順序が逆になりますが、1番目の電話について。

大学時代の友人(後輩)で、1月に送った寒中見舞いを読んで、気になっていたとのこと。彼は30代(たぶん)で奥さんを癌で亡くしているので、家族との死別には敏感なのかもしれません。

亡くなってから1年くらいは、奥さんの思い出などをノートに書き留めていたそうですが、そのノートは子供にも見せたことはないそうです。恥ずかしげもなくmixiで大公開(?)しているボクとは大違いです。(^^;; でも、最初の1年くらいは、誰でもそんな風に過ごすことになるんでしょう。

亡くなる数か月前に、癌患者のメンタル療法みたいなのを試したことがあったそうですが、その中の質問に「人生でもっとも幸せだった時は」というのがあり、奥さんは「家族に夕食を作っている時」と答えていたそうです。

人間が死を意識した時に、愛着を持って思い出すのは、そうした日常の風景であって、非日常的なイベントではないのですね。今のボクもそんな感じですし、おそらく母親もそうだったのではないかと思います。

ただ、母親のために夕食を作っている時が、ボクにとっての幸せな時だったとしたら……、母親が転倒したのも、その時間帯だったりします。この世界は難しい。(^^;;

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