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2018年03月04日00:07

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3月4日の日記

今日の出来事:1167年−平清盛が太政大臣に就任、1184年−源平合戦:宇治川の戦い、1185年−源平合戦:葦屋浦の戦い、1877年−西南戦争:吉次峠の戦い、1952年−十勝沖地震、2000年−プレイステーション2が発売

今日は、平清盛が太政大臣に就任です。平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となりました。「保元の乱」で後白河天皇の信頼を得て、「平治の乱」で最終的な勝利者となりました。そして、武士としては初めて「太政大臣」に任ぜられました。「平治の乱」後の1160年、平清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿となりました。後白河上皇と二条天皇の対立は、しばらくの小康状態を経て再燃しますが、武士で最大の実力者となっていた平清盛は正室・時子が二条天皇の乳母であった事から、天皇の乳父として後見役の地位を得て、検非違使別当・中納言となりました。時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河上皇の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産すると、平時忠・平教盛らはその立太子を画策した事で二条天皇の逆鱗に触れて解官、後白河院政は停止されました。1165年に二条天皇が死去し、前後して前関白・藤原忠通、太政大臣・藤原伊通、摂政・近衛基実など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去りました。平清盛は院近臣の昇進の限界とされていた「大納言」となって女婿・近衛基実を補佐していましたが、近衛基実が急死して後白河院政が復活すると1166年に「内大臣」へ昇進しました。「大臣」は、摂関家・村上源氏・閑院流に限られていて、平清盛の昇進は未曾有のものでした。翌年には「太政大臣」となりました。しかし、「太政大臣」はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任しました。1168年、六条天皇が退位して憲仁親王が即位し、高倉天皇となりました。こうして、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉天皇の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、平氏政権が確立しました。平清盛は出家し、政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めました。1171年、平清盛は娘・徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮としました。平清盛一族と同様に、建春門院に連なる堂上平氏(高棟流)も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至りました。こうして、平時忠による有名な言葉「平氏にあらずんば人にあらず」という平家の全盛時代となったのです。

次に、源平合戦:宇治川の戦いです。1183年、信濃国で平家打倒の挙兵をした木曽義仲が、数万騎を率いて入洛しました。木曽義仲軍は京で乱暴狼藉を働き、やがて皇位継承を巡って後白河法皇と対立しました。木曽義仲軍は備中国の「水島の戦い」で平家軍に大敗すると、後白河法皇は木曽義仲を見放しました。後白河法皇は鎌倉の源頼朝に東海道・東山道の支配を認める院宣を下し、頼朝に接近しました(寿永二年十月宣旨)。起死回生をはかり、木曽義仲は院御所の法住寺殿を攻撃し、後白河法皇を幽閉して政権を掌握しました(法住寺合戦)。孤立した義仲は平家との和平を打診しましたが、拒絶されました。1184年、木曽義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を出させました。そして、木曽義仲は「征東大将軍」に任命されました。3月4日、源頼朝は近江に進出させていた源範頼、義経に木曽義仲追討を命じました。入洛時には数万騎だった木曽義仲軍は、「水島の戦い」の敗北と状況の悪化により脱落者が続出して、千騎あまりに激減していました。木曽義仲は「義仲四天王(樋口兼光、今井兼平、根井行親、楯親忠)」の今井兼平に500余騎を与えて瀬田を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護しました。源範頼は大手軍3万騎で瀬田を、源義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃しました。源義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れました。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時の事です。鎌倉を出発する時に梶原景季は源頼朝に名馬「生食(いけづき)」を賜るように願いましたが、頼朝はこれを許さず、代わりに「磨墨(するすみ)」を与えました。ところが、源頼朝は後で「生食」を佐々木高綱に与えました。軍中で佐々木高綱が「生食」に乗っている事を知った梶原景季は恥辱と考え、佐々木高綱を殺して自害しようとしました。佐々木高綱が機転を利かせて、これは賜ったのではなく盗んだのだと言うと、梶原景季は「自分も盗めばよかった」と笑いました。源義経の軍と木曽義仲の軍は宇治川で対陣し、佐々木高綱は「生食」、梶原景季は「磨墨」に乗って、一番乗りの功名を立てようと川に乗り入れようとしました。佐々木高綱が「馬の腹帯が緩んでいる。絞め給え。」と助言すると、梶原景季は落馬しては一大事と馬の腹帯を締め直しました。その隙に佐々木高綱が川に進み入ってしまいました。謀られたと知った梶原景季も急いで川に乗り入れ、川中で激しく先陣を争いました。結局、佐々木高綱が一歩早く対岸に上陸して、一番乗りを果たしました。「義仲四天王」の根井行親、楯親忠は必死の防戦をしましたが、義経軍に宇治川を突破されました。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入しました。木曽義仲が出陣し、義経軍と激戦となりました。義仲は奮戦しましたが遂に敗れて、後白河法皇を連れて西国へ脱出しようと院御所へ向かいました。源義経は自ら数騎を率いて追撃し、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功しました。後白河法皇を連れ出す事を断念した木曽義仲は巴御前と共に、今井兼平と合流するために瀬田へ向かいました。この「宇治川の戦い」で根井行親、楯親忠が討死しました。瀬田で源範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗報を知ると退却し、粟津で木曽義仲と合流しました。こうして、木曽義仲の最期、「粟津の戦い」となるのです。

その次に、源平合戦:葦屋浦の戦いです。「一ノ谷の戦い」後、屋島に敗走した平家一門は、なおも瀬戸内海一帯の制海権を握って勢力を保っていました。源頼朝は、弟・範頼を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格を揃えた主力部隊を西上させました。山陽道を下って安芸国まで軍勢を進めましたが、平行盛軍によって兵站を断たれて窮乏しました。「藤戸の戦い」では、佐々木盛綱の活躍で辛勝しましたが、水軍を持たずに兵糧も得られない源範頼軍の苦戦は続きました。赤間関に到達して九州へ渡海しようとしましたが、彦島の平知盛軍に行く手を阻まれました。しかし、反平氏の兵を挙げた豊後国の豪族・緒方惟栄と臼杵惟隆の兄弟から兵船82艘の献上と、周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧米の提供を受けて、ようやく豊後国へ船出しました。渡海したのは北条義時、足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、中原親能、千葉常胤、千葉常秀、下河辺行平、下河辺政義、浅沼広綱、三浦義澄、三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、渋谷高重、比企朝宗、比企能員、和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、加藤景廉、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品坊昌寛、土佐坊昌俊、小野寺道綱らでした。北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実が最初に上陸し、1185年3月4日に筑前国葦屋浦で、平氏方の原田種直と子・賀摩種益らの攻撃を受けて合戦となりました。下河辺行平、渋谷重国らが矢を放って応戦しました。原田種直、賀摩種益は渋谷重国によって射られ、下河辺行平が原田種直の弟・美気敦種を討ち取りました。この合戦の勝利により、平氏の地盤であった長門・豊前・筑前は源範頼軍の制圧するところとなり、海峡を隔てて彦島の平氏は孤立させられる事になりました。しかし、兵糧米の欠乏により、いったん周防に撤退しました。そして、源頼朝より九州での戦線維持が不可能であれば、直接四国の平氏を攻めるように命が出されます。3月13日に源範頼軍の苦戦と兵糧の欠乏を知った源義経が、治安の不安から引き留める後白河院や貴族たちを振り切って、平家本陣の屋島へ向けて出陣します。源範頼軍は豊後を押さえて平知盛軍を彦島に釘付けにして、屋島との連携を断ち切りました。こうして、「屋島の戦い」となります。

その次の次に、西南戦争:吉次峠の戦いです。篠原国幹は、1862年に有馬新七らと挙兵討幕を企てましたが、島津久光の鎮圧にあって失敗しました(寺田屋騒動)。「薩英戦争」で砲台守備に出陣しました。「戊辰戦争」では、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって「鳥羽・伏見の戦い」に参戦しました。その後、東征軍に従って江戸に上りました。「上野戦争」で「彰義隊」を攻めた時、正面の黒門口攻めを担当し、その陣頭に立っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られました。この後、奥羽へ転戦しました。明治新政府では、陸軍大佐に任じられました。後に陸軍少将に昇進し、近衛局出仕を兼ねて従五位に叙せられました。近衛長官の時、軍事演習を御覧になった明治天皇がその指揮ぶりに感心して「篠原に見習うように」と、その演習地を「習志野」と名付けました。1873年に「征韓論」に敗れた西郷隆盛が下野すると、天皇の引き留めの命にも従わず、近衛長官の職を投げうって鹿児島へ帰国しました。1874年に、桐野利秋や村田新八らとともに鹿児島に「私学校」を設立し、その監督となって青年子弟を養成しました。1877年2月15日、明治政府との対決を決意した西郷隆盛が鹿児島を出発しました。ここに「西南戦争」が勃発しました。薩摩軍は、2月22日から24日にかけて熊本城を総攻撃しましたが落とせず、3000の兵を残して政府軍を迎撃するために、山鹿・植木方面へ軍を展開しました。2月23日の「木葉の戦い」で政府軍を退却させましたが、27日の「高瀬の戦い」で薩摩軍は敗れ、三の岳、吉次峠、半高山、横平山、田原坂と、尾根づたいに陣を張り、政府軍に激しく抵抗しました。吉次峠は、田原坂と共に交通の要所で薩摩軍に加わった熊本隊の佐々友房が2月27日から陣を敷いていました。この吉次峠をめぐって、両軍が死力を尽くして戦う事になりました。3月3日に政府軍は田原坂に総攻撃をかけました。翌4日に半高山を攻撃、薩摩軍と政府軍は吉次峠を中心に激しい戦いを繰り広げました。早朝、政府軍第2旅団の野津道貫支隊が悪天候を利用し、吉次本道から薩摩軍の奇襲を試みました。これを受けた篠原国幹は、村田新八とともに川尻からの増援部隊を基幹として反撃に出ました。篠原国幹は左翼隊三ノ岳中腹から、村田新八は半高山からそれぞれ政府軍左翼を攻撃しました。吉次峠を政府軍に奪われまいと先頭に立って戦い、峠から政府軍を北へ1kmほど押し戻しました。この時、同郷の出身で元部下の近衛歩兵第1連隊第2大隊長・江田国通少佐は、濃霧と雷雨の中で赤裏の外套を翻して銀装刀を揮いながら、陣頭に立って部隊を指揮する篠原国幹の姿を前方に認めました。すぐに、江田少佐は射撃の上手い兵に赤裏の外套を目印として狙撃を命じました。弾を数発受けた篠原国幹は、その場に崩れ落ちました。享年42でした。篠原国幹を失った薩摩軍は、復讐心から逆に戦意を高めました。そして、江田国通少佐を銃撃によって斃して、政府軍を原倉まで退けました。「吉次峠の戦い」は、薩摩軍、政府軍ともに多くの死傷者が出たため、政府軍から「地獄峠」と呼ばれる事になります。

そのまた次に、十勝沖地震です。1952年3月4日午前10時22分44秒、北海道襟裳岬東方沖約50kmを震源とする地震が発生しました。北海道から東北北部で揺れや津波などの被害があり、28人が死亡、5人が行方不明、287人が重軽傷を負いました。また、家屋被害は全壊815棟、半壊1324棟、一部損壊6395棟、流失91棟、浸水328棟、焼失20棟、非住家被害1621棟でした。この他、船舶被害451隻を出しました。北海道東部の厚岸郡浜中町の中心部霧多布地区では、津波により家屋が大多数流出し、壊滅しました。この時期の流氷と海氷が津波により押し寄せたため、家屋の破壊が甚大になりました。津波は、厚岸湾が最高で6.5m、青森県八戸市で2mで、津波警報制度発足後、最初の大津波となりました。この前日の3月3日が、1933年に起こった「昭和三陸地震記念日」で警報伝達訓練や避難訓練が多数行われ、防災に大変役に立ちました。

最後に、プレイステーション2が発売です。プレイステーション2は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)から発売された家庭用ゲーム機です。「プレイステーション」の次世代機として開発され、日付の語呂にあわせて2000年(平成12年)3月4日に発売されました(1234)。縦置き、横置きの両方が可能で、発売3日で100万台を出荷しました。2005年11月には全世界で1億台の生産出荷台数を記録しました。プレイステーション用のソフトウェアの大部分をそのまま利用できるという、ハードウェアの上位互換性がありました。プレイステーション2の功績は、DVD−ROMドライブを搭載し、DVDプレーヤーとして活用が出来た事でした。このため、DVDの普及に大きな貢献をしました。当時、39800円と言う価格は既存のDVDプレーヤーと比べて格段に安く、DVDプレーヤーの価格破壊となりました。ここからDVDの安売り合戦がはじまりました。今なら、もっと良いDVDプレーヤーが4000円ぐらいで買えます。

今日の誕生日:島津義久、井伊直政、アントニオ・ヴィヴァルディ、大塩平八郎、有島武郎、松岡洋右、天知茂、桜井浩子、中条きよし、 レロン・リー、山本リンダ、佐野史郎、五十嵐浩晃、戸田誠司(元FAIRCHILD)、浅野温子、坪倉唯子(B.B.クィーンズ、元渚のオールスターズ)、野島伸司、小谷真生子、ふじいあきら、KONAN(元SDN48)、青島あきな、中村蒼、原大智、藤井梨央(こぶしファクトリー)、二ノ宮亜美

今日の記念日:バウムクーヘンの日、ミシンの日、サッシの日、雑誌の日、三線(さんしん、沖縄の弦楽器)の日、酸蝕歯の日、三枝の日、三姉妹の日、差し入れの日、スカーフの日
今日の「今日訓」:本日は、1919年3月4日に広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)で行われた「ドイツ作品展示会」で、カール・ユーハイムが日本で初めてドイツの伝統菓子「バウムクーヘン」の製造販売をした事で「バウムクーヘンの日」、3と4の語呂合わせで「ミ(3)シ(4)ンの日」、「サッ(3)シ(4)の日」、雑誌「ざっ(3)し(4)の日」、沖縄楽器の三線「さん(3)しん(4)の日」、酸蝕歯「さんしょく(3)し(4)の日」、三枝「さん(3)し(4)の日」、三姉妹「さん(3)し(4)まいの日」、「さ(3)し(4)入れ」の語呂合わせで「差し入れの日」、三角形と四角形の「3と4」で「スカーフの日」となりました。
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