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2018年02月18日12:12

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産業革命

モノから情報へという、社会の価値のしくみが大変化を起こしていることに気づいている人は少ない。この大変化に比べれば、かつて十八世紀の産業革命の時代に、人類が経験した農業から工業社会への変化は、むしろささやかなものであった。なぜなら、産業革命による変化が、たとえば小麦生産から綿織物工業への変化だったとすれば、それは、口に入れられるものかどうかの違いに過ぎず、同じモノの生産・消費であることに変わりはないからだ。

しかし、二十世紀から二十一世紀の変わり目に起こった、この情報価値革命は、これまでとは、価値の本質が百八十度異なる、モノの価値社会から情報の価値社会へという、まさに価値大転換とも言うべき変化なのである。

情報は、差異から生まれる。それは何かとの違いに過ぎず、物質ではない。

そして、物質ではない情報が価値の中心にすわる価値大転換社会とは、いったいどんな社会なのか。その全貌を明らかにするのが本書の目的である。例えばビジネスの仕組みは、個人の暮らし、そして社会全体の様相は、それらすべてが、これまでのモノ社会とは様相を異にするものとならざるをえないのだ。

モノ社会は、誰もの価値判断が、ほぼ同じになる絶対価値社会だった。デジタルカメラは誰が使っても、同じように撮れる。同じ性能のクルマに乗って、同じ程度にアクセルを踏めば、ほぼ同時間で目的地に着く。モノが提供する機能は誰にとっても、使い方さえ誤らなければ同じように働く。つまり、誰にとっても同じモノなら同じ価値だったのである。

これに対して、情報価値社会は、人により、時により、場所により、まったく価値判断が異なる相対価値社会である。例えば、同じテレビ番組を見ても、面白くてしょうがない、という人がいる一方で、こんな番組のどこがおもしろいのか、とぼやく人がいる。先進国の中で、日本の街ほど汚い都会はないという人がいる一方、平気で暮らしている人も少なくない。英語を解する人は、世界各国の情報がわがものだが、そうでない日本人は、一億あまりの人としかコミュニケーションできない。

このように、情報の価値は、それに対する人、また使いこなす人によってまったく価値の異なる相対価値である。

それだけではない。情報の相対性はさらに深遠だ。情報の要素同士の組み合わせによって価値が生まれたり、また逆に消滅したりするのである。組み合わせによって種々の価値変化が起こるのだ。

今、時代の先頭に立っているのは、手先の器用な人ではない。身体の頑丈な人でもない。いわゆるよく働く人でもない。知識や情報の組み合わせから生まれる価値を、うまくビジネスにつなげている人である。グーグルが考え続けていることは、それが映像にせよ、膨大な印刷物にせよ、地球上のありとあらゆる地理情報にせよ、それらを集積し、編集し直すことだ。グーグルが新たに生み出した素材は何もない。それはフェイスブックも、日本のミクシーも、楽天にも共通している。ネット上の成功者のほとんどが、既存の情報や、誰かが生み出したり創りだしたりした情報を、それぞれ独自のシステムでまとめ直したに過ぎない。

しかし、この再編集された知識や新たな情報群こそが、途方もいない価値を創り上げつつあるのが今日である。つまり、驚くべき事実だが、情報要素そのものに価値は内在しないのである。

情報の二番目の特徴は、複製が容易であることだ。この点については、現代のほとんどの人が気づいていて、またその利便性につても日々享受している。けれど、その理由をじゅうぶんに理解し、新たな機会に結びつけている人々は、ごく一部の人たちにすぎない。

情報はモノではない。それと同じ機能をもった情報を、新たに創りだすには、それを写しとればよいだけである。「あ」という字は、紙の上に書いても、砂の上に書いても「あ」である。あるいは、空気の振動差異として、音声に変えてもよい。そのため、同じ機能をとめどなく、ほとんど物資やエネルギーを使用することなく増幅できる。デジタル社会になって、情報爆発が起こった理由である。

私たちは、なぜユーチューブなるものが出現して、驚くべき価値を世界中に撒き散らしたか、よく理解できていない。若者の多くが、深夜から朝まで、ユーチューブの画面の前で時間を過ごしている。それは、今までのマスメディアが束になってもかなわないほどの巨大な価値の塊を意味する。もともとの素材はテレビ局や音楽会社が作っている。しかし、それを複製し世界中に配信し、新たな価値に仕上げているのはユーチューブである。

若者たちは、ユーチューブを見る代金をどこに支払っているのだろうか。もちろん、タダで見ている。一度、経済学者は、ある一日に世界中で消費されているユーチューブの映像代金を計測してみるといい。それを年間の金額になおしたとき、果たしてどのくらいの経済価値が生み出されているかがわかる。同時に、それは経済学で扱うべき膨大な量の金額に匹敵し、またそれをまったく無視して現代の経済を論じている軽率さに、我ながら驚くことだろう。そして、世界中のほとんどの既存メディアがその反作用に悩まされている。

なぜ、こんなことが起こるのか。理由はしごく簡単である。情報は交換を必要としないからだ。交換が必要なのは、モノ同士の交換に限られる。考えてもみよう。あなたが、コンビニに入って、棚に並んでいるチョコレートやカップ麺のパッケージを眺めることは自由である。ただ、それを黙って外に持ちだそうとした時にだけ、「すみませんが」と、店の人から声をかけられる。これと同様に、映画を見るのも、アーティストの音楽を聞くのも、本来はタダである。デジタル社会の今日、いくらでもほぼコストゼロでそれらは複製できるからだ。まさにユーチューブはそれを現実のものとしている。知的財産権は、自然科学の法則とは縁のない、社会法則にすぎないのである。

三番目の特徴は、情報は、時間と空間の制限をほとんど受けない。四次元の空間に存在するしかないモノ社会とは隔絶した違いである。

インドが急激な発展を見せているのは、これが大きな理由である。モノの生産には、時間と空間の厳密な概念が必要となる。ひとつの工場を効率よく稼働させるためには、ある特定の時間の、特定の場所に、必要なすべての部品と決められた数の労働者が集まることが必須である。一人でもこれに従わない者がいれば、工場のラインをスタートさせることができない。また、ある定められた期間内に、定められた場所に製品を仕上げて納品することが、多くの場合、その製品の質以上に大切なことを、日本人なら誰でも知っている。

インド人はこれができない。時間を守って行動することは、大の苦手である。頭脳は優れているのに、近代の規格大量製品づくりに肝心な、大人数で規律正しく行動することができないため、発展に取り残されていたのだ。

デジタルネット社会の到来は、この不利な条件からインド人を開放した。ネットのスピードは、時間と場所を気にしない。全員が一斉に工場のラインに並ぶ必要はまったくない。自分の仕事は夜中に仕上げて、データさえ地球の裏側に送ればよい。机をとなり合わせに並べていなくとも、関係者はつねにネットでつながっている。こうして、インド人の数学的に緻密な頭脳は、市場化されたのだ。

これらは、社会を構成する要素や価値が、モノから情報へと大転換することによって起こっている、ほんの一部の変化に過ぎない。最近のSNS(ソーシャルネットワークサービス)の進展は、これまでのマーケティングの概念を一変させている。マーケティンの目標は、長年の間、顧客の創造と唱えられて来た。けれど、今日、顧客を創造しているのは、顧客自身である。企業も広告会社も、PR会社もマスメディアも、今まで市場を支配してきた誰もが消費者をコントロールできなくなっている。良い商品とは何かという定義さえも、消費者自身の手にゆだねられるようになって来ている。

こうして、ちょうど木の幹が変われば、そこから伸びる枝ぶりがすべ違ってくるように何もかもが変わってしまう。モノの価値から情報の価値へという価値大転換は、企業のあり方、人々の生き方、社会のあり方。これらすべてを価値大転換の大渦へと巻き込んでいく。ここで書かれていることは、夢想的な未来予測ではない。すでに起こっている、起こりつつあることだ。そして、この価値大転換の大波の原理原則を理解し、自らの企業や自らの生き方について正しくとらえた人々だけが、未来に先んじることができる者となることだろう。
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