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2018年02月13日20:46

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着袴の儀と密入国朝鮮人のルーツ前編

2017年9月15付「リーの日記」で「ついに小和田家【出自】の秘密 《水間氏の意向により全文掲載条件でネット転載可》」を掲載し、小和田家が朝鮮人帰化人であることを書いた。今回は、雅子妃の母親優美子の実家江頭家のルーツを含めて、更に情報を調べてみた。

参照:ブログ「6月のシャンプー」↓
http://maruga935.blog8.fc2.com/blog-entry-2102.html

【皇室の背乗りを暴く】愛子の着袴の儀は朝鮮漬けだった↓
https://www.youtube.com/watch?v=LGBuOKkLCwQ

平成18年11月11日に、愛子の着袴の儀(ちゃっこのぎ)が終了。着袴の儀とは、平安時代から続く、数え年5才の年に、「賜剣の儀」の際に天皇陛下から贈られた袴を着用する伝統儀式。男子は滝の意匠をあしらった和服「落滝津の御服」の上に白絹の袴、女子は濃色(こきいろ)と言われる濃い赤紫色の袿(うちき)に、同色の袴を着用。 袿と袴の正装写真は、11月7日の儀式の練習時に撮影された。本番の11月11日、愛子はピンク色の丈が短い奇妙な衣裳を着用、皇太子も雅子妃も和装ではなく洋装だった。ピンク色の衣裳は、雅子妃の実家の小和田家の宗派の創価学会の池田大作(本名ソン・チャンテク)名誉会長から贈られた朝鮮貴族の官服とのこと。池田名誉会長は天皇より上、という意味なのだろう。皇太子の着袴の儀では美智子妃は和服で、悠仁親王の着袴の儀でもご一家全員が和装だった。愛子は練習では、衵扇(あこめおうぎ:檜扇とほぼ同義)を手にしているが、本番の日は薄っぺらいただの扇子を手にした。

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東宮御所で雅子妃が飼う日本では珍しい珍島犬↓

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雅子妃は、病気になる前の結婚当初から、宮中祭祀を拒絶している。当初は、外交官志望だったのでアメリカナイズされているからと言われたが、事実は日本の文化を嫌う朝鮮帰化人の創価信者だからだろう。

公式の場所でチマチョゴリ着用↓

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参照:News U.S. 「皇室の闇・小和田雅子(創価学会・胡散臭い家系・部落解放同盟が擁護)に東京駅で「仮病だらけの税金泥棒!!皇室から出ていけ!!」と60代男性が罵声を浴びせネット大炎上…2ch「雅子は皇室に送り込まれたトロイの木馬だ。皇室を批判する者が、雅子だけは支持している」「公務は年に10数日、私的な遊びは100日以上」「小和田家の悪行が早く天の下に晒されますように」↓
http://www.news-us.jp/article/354209079.html

在日韓国人、在日朝鮮人は必至で雅子妃を擁護するコメントを書き込むのは、同族意識が強いからだろう。雅子妃は学歴ロンダリングで、米国のハーバード大学には、父親の小和田恒が1979年から1981年までハーバード大で客員教授をしていたコネで入学。ハーバードの卒論も小和田恒のコネで、当時の経団連理財部長、経団連常務理事の糠沢和夫、東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長というすごいメンバーが手伝った。1986年に小和田恒が25年間、非常勤講師をしていた東京大学の外部学士入学(学士入学は編入学制度)では、雅子妃は共通一次、二次試験を受けず、語学と小論文と面接のみだった。翌年の1987年に東大を中退し、小和田恒の外務省のコネで外務省に入省。オックスフォードに国費留学したが、雅子だけ修士を取れなかった。父親のコネがないと結果が出ない人で、雅子妃の日本国内での学歴は実質「中卒」とのこと。

雅子妃の父方実家小和田家と母方実家江頭家の家系図↓

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参照:ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】小和田一族は皇室解体を企む朝鮮人だ↓
https://www.youtube.com/watch?v=tmeQyxaAkK0

小和田家が祖先が三代前までしか遡れない家系なのは、三代前の小和田金吉が、1867年~1868年頃に朝鮮から密航して来たからだろう。雅子妃の父親の小和田恒は、当時、水俣病を引き起こして世間の非難を浴びていたチッソ株式会社の社長江藤豊の娘の優美子と結婚。江頭家も、四代前までしか遡れない家系である。

小和田一家の雅子が嫁ぐ朝の両親と娘3人の前のテーブルに飾られたのが、韓国と北朝鮮の国花の槿(むくげ)。普通の日本人家庭は、めでたい日に槿を飾ることは絶対にない。槿は「槿朝一夕」(きんちょういっせき)と言われ、由来は朝咲いてその日の夕には枯れるという意味で、生け花では忌み嫌われて使われないのである。

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小和田恒のモスクワ公使時代のピクニック時の3人娘との食事風景は、韓国風の器に盛られた韓国名物の混ぜご飯。木べらも実に朝鮮的だ。日韓併合前の李氏朝鮮時代、白丁(ペクチョン)と呼ばれる奴隷たちは、両班(リャンバン)と呼ばれる貴族たちの少ない食べ残しをかき集めて混ぜてやっと一人分の食べ物を作った。今の韓国人、朝鮮人の大多数がこの白丁の子孫であるなごりで、今も韓国人は食べ物を残飯のようにぐちゃぐちゃに混ぜて食べる習慣がある。

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参照:ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】雅子・母方実家は部落民だった↓
https://www.youtube.com/watch?v=5GwOHhF31i8

ブログ「日本における部落問題は朝鮮人問題」↓
https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-11979451899.html

雅子妃の母親の実家の江頭家の出身は、九州である。江頭という苗字の由来の一つは、被差別民の穢多の頭(かしら)という意味。雅子妃の結婚前、宮内庁が雅子妃の家系図を調べようとした際、部落解放同盟が差別だと異議を申し立てたので、宮内庁は調査を中断した。九州は朝鮮半島に近いので、在日が多く住むことでも知られている。穢多・非人と言われた人々が住んでいたのが部落で、平安時代の頃、朝鮮半島を捨てて船に乗って亡命して来るような人々が部落民となった。

母親の江頭優美子の父は豊で、豊の父の安太郎は青山の墓地に埋葬されたが、豊は東京には埋葬されていない。豊は、自分の九州の出自を恥じて隠していた。安太郎の妻米子の実家の古賀家にも墓がなく、佐賀の阿弥陀寺に長い間、無縁仏として放置された。この無縁仏は、近年に一ヶ所に集められて合祀されたそうだ。前述の家系図では、安太郎の父の嘉蔵は明治維新まで佐賀の鍋島家の家臣(佐賀藩士)となっているが、明治初編の佐賀藩侍着着(出勤簿)に名前がないのが事実である。当然だが、部落民が藩士になるわけがない。江頭嘉蔵は番太部落出身で差別を受け、小学校の小使いの職についた。穢多・非人は、その職業に従って様々に呼ばれたが、番太は、夜警、浮浪者の取り締まり、刑場などの雑用、処刑など人が敬遠する仕事に携わり、都市に設けられた木戸に接した番小屋と呼ばれる粗末な家に住み、番太郎とも呼ばれた。なお、年長の親戚から聞いたが、「番太の子」というのは礼儀作法も知らない野蛮人の子という意味である。

息子の安太郎は、出自を隠して佐賀に一度も帰らなかったそうで、豊も自分の九州の出自を恥じて隠していたのには、このように部落出身という背景があったからである。1993年、部落解放同盟の集会で、沖浦和光が小和田雅子の祖先は部落民だと言った。雅子妃は、父方も母方も朝鮮のルーツということになる。

問題なのは、己の出自ではなく、祖先の出自の呪縛が解けず、日本の伝統、文化を蔑ろにすることである。雅子妃が反日朝鮮人韓国人同様、皇室を蔑ろにして、今も公務をきちんと務めないことが問題だ。雅子妃は、ご病気を報じられてから今年でなんと15年目!昭和天皇は、祖先が三代前以上は遡れない雅子を妃候補として認めなかったが、高円宮夫妻が雅子妃を強力に推したのである。

参照・ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】皇室解体の使命を帯び、陛下の死を待つ魔女↓
https://www.youtube.com/watch?v=BD_0O_STY0w

ブログ「remmikkiのブログ」故高円宮殿下とは↓
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4532365.html

2002年に亡くなった高円宮憲仁の久子未亡人が、当時、夫と共に雅子妃の入内を推し進めた。通訳をしていた久子は、大正天皇の四男の三笠宮崇仁親王に見初められ、その息子の高円宮憲仁と結婚。雅子妃の母親優美子と久子は旧知の仲である。リーの日記「大鳳会と日本ユニセフ協会とベネッセと小和田家」2018年1月21日付でも書いたが、優美子が日本ユニセフ協会の評議員で、小和田恒が、妻が評議員を務める日本ユニセフ協会の認可を下した経緯があり、高円宮憲仁は外務省と接点があったとのこと。

優美子と末端の宮家で予算も少ない高円宮は、皇太子に接近して皇族としての公務の仕事を増やしたい思惑があった。昭和天皇の崩御後、小和田恒と高円宮夫妻は連携し、雅子の入内のために活動。1986年スペインのエレナ王女の歓迎パーティーに、小和田恒と一緒に学生だった雅子を招待し、皇太子に初めて引き合わせたのは高円宮夫妻だった。

高円宮夫妻は、皇族として初めてて韓国を公式訪問した。サッカーワールドカップ日韓共催を実現させたのも、日本サッカー協会名誉理事の高円宮憲仁と、当時の電通の最高顧問で朝鮮人の成田豊、河野談話で日本を貶めた河野洋平であり、高円宮家は韓国との関係が強い。高円宮夫妻は、在日企業ロッテの会長重光武雄と一緒に写真に写っている。

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参照:ユーチューブ「【皇室の背乗りを暴く】高円宮久子の実家は穢多だった」↓
https://www.youtube.com/watch?v=rZ4dKJNIj6A

高円宮久子の実家の鳥取家の宗教は浄土真宗で、穢多の可能性があるとのこと。遡れる祖先は、久子から三代前の治郎八までである。鳥取家は代々、香川県三豊市豊中町に住んでいる。インターネット版部落地名総監によると、三豊市は高瀬町下勝間、高瀬町新名、高瀬町比地中、「豊中町上高野」仁尾町仁尾仁尾の上、山本町辻中西が部落地区となっており、 久子の実家は部落地区のど真ん中にある。

浄土真宗には、穢多の信徒が多かった。穢多の信徒は、浄土真宗内の自治警察の役割を果たし、浄土真宗を捨てて他宗教の「邪宗門」へ流れる者を抑圧、排除した。この働きにより、浄土真宗は徳川幕府から信任されたので、穢多は浄土真宗にとって必要であった。近世幕藩体制下の「穢多」は、司法、警察に携わる「非常民」の一つであり、司法、警察に携わる「非常民」には、与力、同心、目明し、穢多・非人と、村方役人がいた。例えば、徳山藩の処刑の記録を見ると、一人の処刑に複数の穢多が係った。浄土真宗の説教では、穢多に非常民としての生き方全般についての精神的支えを用意していたので、穢多の信徒が多かったのだろう。

久子の祖父為三郎は祖業を継ぎ、仁尾塩田、讃岐煉瓦各社の取締役となったとあり、塩田事業は、社長も従業員も穢多が多く、暑くてきつい重労働だそうだ。仁尾塩田の会社の場所も部落地区にあり、仁尾塩田は、現在は仁尾興産と社名変更し、住所は香川県三豊市。久子の実家の鳥取家は部落民の可能性が非常に高いとのことだ。

韓国人を一人呼び込むと、その韓国人が同族を次々呼び寄せるので、組織内部が劣化するというのは、世間でよく言われていることである。
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