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2018年01月21日23:35

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西部邁、死去

保守派の評論家の西部邁が亡くなったという。
今日の朝、東京都内の多摩川で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡したそうだ。
遺書があり、入水による自殺とのことである。
驚いた。
驚いたが、納得もした。
妻に先立たれ、癌を患い、自らの死に時を考えてのことだと思われる。
西部邁は、生前このような主張を述べていたらしい。

「安楽死」もしくは「尊厳死」の問題が巷間において最近にわかに人の口の端に上っている。
にわかに、というのは実は正確ではなくて、それは既に1960年代から始まっているのだが、世論レベルで安楽死・尊厳死の事が取り沙汰されるようになったのはここ5年ほどのことだと思われる。
単に世論においてだけではなくて、様々な専門家たちがこの問題について研究発表したり、さらには政府の審議会などにおける様々な議論が公表されたりするという状況になってきている。
安楽死や尊厳死が問題となったのは、医学が発達して、色々な薬品・装置によって人間の延命が可能になり、果ては、「脳死」のようなかたちで大脳が破壊されても、科学技術によって延命させることが出来るようになっているからである。
安楽死・尊厳死という言葉および概念についての私のイメージはどちらかというとネガティブなものである。
このような概念によって死を捉える事それ自体が文明の、悲劇とはいわぬまでも、否定的側面をなすのではないか。
安楽死にたいする家族の同意にあっては、患者の苦痛を長引かせたくないといういわば患者への愛情がないわけではないけれども、同時にその苦痛にこれ以上付き合いたくないという看護人のエゴイズムも含まれている。
同時に、それを「尊厳死」と言いかえるのにも、大きな無理がある。
「安楽死」を「尊厳死」と呼ぶについてはいろんな理由があるようだが、私の推測を交えていうと、死という厳粛なる事実つまり「存在の絶対的不連続」に対して「安楽」などという命名を与えるわけにはいかない、それは「人生の崇高」に対する冒瀆であるという思いがそこにあるようだ。
そこで、生と死ともども尊厳に敬意を表して「尊厳死」という呼び方が採用されたのであろう。
しかし、私は「尊厳死」というのもまた不適当な言葉遣いであると思う。
なぜなら、人工的に死を早めることそれ自体に積極的な意味での尊厳性があるはずがないからである。
「尊厳死」という表現が適切なのは次のような場合であろう。
わかりやすい例でいうと、特攻隊員がいて死へ向かって突撃したとする。
その兵士が、国家・国民を守るためという、「崇高」と呼んでよいような価値観を持って特攻に赴いたとする。
そういう場合にこそ、「尊厳死」という事がいえるのではないか。
国家でなくてもいい。
自分の家族を守るために、自ら死を選びとるというふうな場合、つまり自分を超えた存在の為に死を選びとる場合、そしてその自己超越を可能にしてくれる存在に価値的に尊厳感が宿るとき、そのときに「尊厳死」という言葉を遣うのが本来の語法であろう。
ところが現代社会では、国家や家族のことにとどまらず、何らか絶対性を帯びた価値が、というよりも絶対性を帯びた価値への接近が軽んじられている。
尊厳な価値をすすんで引き受けるという生の局面が消失していくばかりなので、「尊厳」という言葉それ自体がいわば水割りにされ、このような屈辱感の減少に過ぎないような死の形態に対して仰々しく「尊厳死」という名前がつけられるのである。
死の尊厳なるものについてもしかりであって、たかだか延命装置をはずすよう要請したからといって、それに「尊厳」を見出すのは不可能である。
それも自由選択の一つではあるが、しかし私の認めがたい技術主義の平面における選択なのである以上、それに大した尊厳性がこもるとも思われない。
要するに複雑な死に方を選びとれば、妻や子供に余計な苦痛を与えるかもしれないことを懸念して、いざとなれば簡単に死んでしまおうというだけのことなのだ。
またそれは、延命のための薬品や装置を自力で拒否しうる段階で自殺するということでもある。
下手に植物人間になるまで生きていれば、安楽死や尊厳死やらに同意した妻子に、あとで同意しなければよかったと後悔させることになるかもしれない。
そういう心配を避けるために、自分の判断で簡便死を選ぼうというのである。
ただし、二つの条件が整わなければ、簡便死すら簡単に実行できない。
一つは、自分自身において簡便死のイメージとプランを繰り返し反復することである。
安楽だ尊厳だというふうにイデオロギーで自分を武装する場合には、自分を死に向かって追い込んでいくことは、比較的に容易である。
しかしイデオロギーを取り払ってしまった場合に、いかにすれば簡便死にたどりつくことができるか。
それは、ある程度年齢をとったあたりから、自分はしかじかの形における自殺を、つまり簡便死を選ぶのだということを執拗に自分に言い聞かせることによってである。
自分の生のなかに死への経路をあらかじめ組み込むことだ。
自分はある形態の簡便死を最後に選びとるべく生きている、それが自分の生なのだと構えれば、それはただちに生き方の選択でもある。
となると、死の間際までニヒルな精神の溶液に浸かっておきながら、死の瞬間においてだけ、尊厳だ安楽だというふうに自己を瞞着する訳にはいかない。
つまり簡便死は、自分を騙したくない、周囲の者を騙したくないという構えだけから出てくるものだ。
そんなのは情けない死に方だと言われればその通りであるが、しかしそれは少なくとも正直な死であり、それゆえ簡便死という自殺には「正直」の名誉が与えられる。
今時、たった一つでも名誉が冠されるのは立派なことだとしておかなければならない。

つまるところ、西部邁は有言実行して、正直に死んだのである。
正直な死――それは確かに、理想的な死に方の一つであると思える。

「享年78歳」

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